マタイ17:1−13
イエス様の公生涯の中で、この山上の変貌の出来事はターニングポイントです。主はガリラヤ伝道を終えて、十字架にかかるためにエルサレムに向かい始めます。
1 文脈
「あなたは生ける神の御子キリストです」という信仰告白に基づいて、主イエスは新約の時代の教会を設立する宣言をし、ご自分の受難と復活(贖罪のわざ)について予告しました。このあとイエス様と弟子たちは六日かかって「高い山」に行きます。ピリポ・カイザリヤとの距離から言えば、恐らくガリラヤ地方の北方にそびえるヘルモン山でしょう。主は重要な啓示を山でお与えになることが多いようです。アブラハムはモリヤの山でイサクをささげて御子の受難と復活の予型を表し、モーセはホレブ山で律法を授かり、主イエスは山上の垂訓をお語りになり、また、主は最後の大宣教命令も山でお与えになりました。
この公生涯のターニングポイントにおいて、主イエスは、弟子団の中からペテロ、ヤコブ、ヨハネを選抜して、彼らに圧倒的な啓示の出来事を経験させました。ゲツセマネの祈りでも、この三人が選ばれています。
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
高い山に登ると、三人の目の前で主イエスの様子が変貌しました。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
山の上での啓示の出来事は、三人の心に生涯忘れ得ない深い印象を刻み付けました。ペテロは後日この出来事を思い出しつつ手紙を書き残しています。
2ペテロ「1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。 1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」 1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」
ペテロは「天に昇られた主イエスが、今度は栄光の姿をもって再臨して世をさばかれるという約束は作り話ではない。私は、栄光の主のお姿を目撃した証人なのだ」といっているのです。
先に主は受難と復活の予告をしましたが、弟子たちは十字架の受難の予告のみをショッキングなこととして受け止めて、復活については絵空事としてしか聞きませんでした。主イエスはそういう彼らに、栄光の姿で復活することを示すために、「ご自分のありのままの姿」を見せておくためにこの山に登らせたのです。主イエスの栄光に輝くお姿は、私たちキリスト者にとって再臨の約束であり、自分自身も主とおなじかたちに変えられるという栄光の希望です。
2 唯一の仲保者
(1)「律法と預言者」が証しして
さて、ペテロとヤコブとヨハネが栄光に輝く主イエスを見ていると、そばに二人の老人が出現し、イエス様と話し始めました。一人は長い羊飼いの杖を持ち、一人はおっかなそうな顔です。なぜモーセとエリヤだとわかったのでしょう。名札をつけていたわけではないでしょうが、イエス様が「モーセはどう考えるか」「エリヤはどうだ」といったセリフで語られるのを聞いて、これらの人物が律法の授与者モーセと預言者エリヤであることがわかってきました。
ペテロはすっかり興奮してしまいます。幼い頃から旧約聖書のお話に親しんできた彼らにとって、モーセ、エリヤといえば血湧き肉踊る英雄です。何を言ったらよいかも分かりませんが、弟子団の自称筆頭者としては何か言わねばならないと思ったのでしょう、とりあえず次のように口走りました。 17:4「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」あまりにもすばらしい経験なので、ペテロはせっかく来て下さったモーセさんとエリヤさんがすぐに帰ってしまわないように、休憩所でも造ろうとでも思ったのかもしれません。
どうして出現したのがモーセとエリヤであったのでしょうか?おそらくは、モーセは律法の授与者として出現し、エリヤは旧約時代の数ある預言者の代表として現れたというのがスタンダードな理解のようです。「律法と預言者」によってあかしされてイエス・キリストは、この世に来られたのです。メシヤの到来は、旧約聖書の中にはるか昔から、人類がアダムにあって堕落した直後から告げられてきた約束でした。
創世記3章によれば、メシヤはサタンの頭を踏み砕くお方としてこられることになってしました。(創世記3:15)
申命記によれば、来るべきメシヤはモーセに匹敵し凌駕する「もうひとりの預言者」と呼ばれました。(申命記18:18)
メシヤはヤコブの家系のユダ部族に生まれることはヤコブによって預言されました(創世記49:10)。さらにユダ族のダビデの家系から生まれるのです(2サムエル7章)。
預言者イザヤによれば、メシヤは、人類の罪を背負って苦しめられ死ぬために来られ、そして復活なさるのです(イザヤ53章)。
預言者ミカによれば、メシヤはベツレヘムでお生まれになります(ミカ書)。
(2)父なる神の声と 仲保者イエス
ペテロとヤコブとヨハネが、光輝くイエス様とモーセとエリヤの姿にうっとりしてしまいます。マルコ伝の平行記事では不思議な眠気が彼らを襲ったとあります。と、にわかに眩しく輝く雲が主イエスとモーセとエリヤを包んでしまいます。この雲は、荒野でモーセとイスラエルの民が幕屋を奉献したときに至聖所に現れたあのシェキーナの雲、神の臨在を現わす雲です。と、今度は地を揺るがすような声が栄光の雲の中から轟きました。
17:5「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」。
いうまでもなく、これは父なる神の御声です。先に主イエスが洗礼を受けられたときにも、父の声が聞こえましたが、これからいよいよ受難と復活の地エルサレムに向かってゆこうとする御子を励ますように、天の父が声をかけたのでした。そうして、公に弟子たちに対して「このナザレのイエスは神の愛する御子である、従いなさい」とお命じになったのです。天地万物の主権者であるお方の声を直接に聞くという恐るべき経験でした。弟子たちが地にひれ伏して震え上がったのは当然のことでした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
神は、被造物にすぎず、その上罪にけがれた私たちには、近づくことはおろか、見ることさえできない恐るべき聖なるおかたです。ホレブ山に主が降りて来られたとき、その山に触れるものは打たれて死ななければなりませんでした。大祭司アロンの息子たちは、異なる火をささげたとき、至聖所から出てきた火によって焼け死んでしまいました。テモテの手紙第一には神は「6:16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」とあります。
聖なる神を何にたとえればよいでしょうか。主イエスのお顔が太陽のように輝いたとありますから、太陽にたとえて見ましょう。太陽を知りたいと思って、太陽をじかに見つめていれば私たちの目は焼け爛れてしまいますし、太陽をもっと知りたいと願って宇宙船に乗って太陽に近づいてゆけば私たちはジューッと燃え尽きてしまうでしょう。無限の聖なる神様と、罪ある被造物である私たちの間には、そのようは隔たりがあるのです。
(3)仲保者イエス
私たち罪ある被造物にすぎない人間の側から、聖なる神に近づくことはできません。見ることさえできないのです。だから、神のほうから私たち人間のほうに近づいてくださったのです。つまり、神様の御子イエス様が、人となって私たちの間に住んでくださいました。私たちの大祭司は私たちの弱さに同情できないようなお方ではありません。罪は犯されませんでしたが、私たちと同じように弱さをあえて担い、私たちと同じように試みにあわれたのです。
イエス様は、天の父の声を聞いて、地面にひれ伏してぶるぶる震えているペテロとヤコブとヨハネの肩にやさしく触れてくださいました。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
神の御子が人となってきてくださったというのは、こんなにもありがたい恵みの出来事なのです。御子イエスが神と人との唯一の仲保者です。主は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれも父のみもとに来ることはありません。」
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
イエス様に触れられて、ようやく生きた心地がして彼らが目を上げてみると、そこにはもはやモーセもエリヤもすでにおらず、ただイエス様がいらっしゃいました。「ただイエスおひとりだけであった」とはなんとも印象的です。それは、「律法と預言者は主イエスにあってすべてが成就した」ということを意味するのでしょう。イエス・キリストのうちにすべてがあり、イエス・キリストを通してのみ私たちは父の御許に行くことができます。
ですが、この栄光のお姿はイエス様が十字架にかかり復活するまでは、他の人々には秘密にしておかねばならないことでした。先にお話したように、十字架を抜きにして栄光を獲得しようと望むのは、サタンの誘惑であったからです。それで、イエス様は口止めをなさいます。
17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。
最後に主イエスは、メシヤの露払いとしてエリヤが来るということは、バプテスマのヨハネがその役割を果たしたのだということをお話なさっています。それ以上の説明は無用でしょう。
3 栄光の希望キリスト
さて、神の御子イエス・キリストのありのままの姿を目のあたりにしたという経験は、この弟子たちの生涯にどのような影響を与えたでしょうか。弟子たちは何をこの出来事から受け止めたのでしょうか。そして、私たち自身、この主イエスの変貌の出来事から何を受け取るべきなのでしょうか。最初のほうでペテロの記録を紹介しましたから、今度はもうひとりの弟子ヨハネの手紙をみて見ましょう。
1ヨハネ「3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
あの山で輝いていたのは主イエスですが、主イエスだけではありませんでした。主イエスとともに語り合っていたモーセとエリヤも、主の光を受けた者として輝いていました。真の神を信じ、そのしもべとして、そして神の子どもとして生きていくならば、主の栄光を映す者としてあれほどのきよい者としていただけるのだということを目の当たりにしたのです。
人はさまざまな目標を持つでしょう。「宝くじで一億円当てたい。」「評判の学校に行きたい。あんな職業に着きたい。」「あんな素敵な家に住みたい。」「あんな人と結婚したい。」などというふうに。まあ、いろいろと目標はあっていいでしょう。しかし、キリスト者がキリスト者である以上持つべき究極の憧れとは何かといえば、それはこの罪にまみれているからだから解放されて、清くせられ、主イエスと同じ栄光の姿に変えられることにほかなりません。私たちの希望は、この世にしか望みがない人々と同じであっては、イエス様も私たちを救った甲斐がないでしょう。
ペテロもヨハネもパウロももだえ苦しんでうめいていました。それは、彼らがキリストにあって罪を赦されながら、なおからみつく罪の力と戦っていたからです。自分は正しいことを行いたいと願っているのに、罪を犯してしまう。隣人を自分自身のように愛すべきであると知りながら、ついつい自分の利益のことばかり考えてしまう。神の栄光をあらわすために生きたい、生きるべきだと思っていながら、気がつくと自分に対する人の賞賛が気になって仕方がない。そういう情けない、どこまでも罪深い自分の姿に気づいて、もだえ苦しんでいたのです。このような苦しみは、キリスト者に特有の苦しみです。栄光のキリストを知る人だけが経験する苦しみです。自分の罪を甘やかしてはなりません。
私たちの標準はこの世のものではなく、栄光のキリストなのです。この土でできた罪のからだは、主イエスにお目にかかるときに、あの栄光のからだに変えていただくことになるのです。栄光の天の御国に住むにふさわしいからだに変えてくださるのです。希望をもって生きてゆきましょう。私たちには、栄光の希望キリストがあるのです。
ピリピ3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。