神学生時代、清水武夫先生から契約神学と旧約聖書神学を教わった。そのどちらのクラスであったかは定かでないが、先生は聖書解釈にあたっては、常に3つの側面に気を付けることが重要であるとおっしゃった。一つはnormative(規範的)な側面、一つはsituational(状況的)な側面、もう一つはexistential(実存的)な側面である。先生自身、米国留学の時代にジョン・フレームという先生から、この聖書解釈の3側面について教わったそうで、当時はFrame's Triadと呼ばれたそうである。清水先生のクラスは聖書解釈学のクラスではなかったので、先生はこの三つの側面が大事なんだという以上のことはおっしゃらなかった。だが、その後、私は説教者として歩みながらずっとそのことを考えてきて、聖書解釈における三側面が極めて重要であることを確かめてきたので、ここに文章としてまとめておきたいと思う。
(1)situational(状況的)側面
第一に当該の聖書本文の前後の文脈・その巻における文脈・神の救いの計画全体の中の位置をわきまえるということである。第二に、歴史書・福音書はいうまでもないが、書簡や預言や詩篇であってもその本文の歴史的背景・状況をしっかりと調べ、読み取ることである。神は聖書において啓示を普遍的命題としてお与えになるよりも、歴史的な個々の人物、民族、事件などを通してお与えになったケースが多いからである。状況をしっかりと把握することで、私たちは信仰の観念化という罠に陥ることを避け、生ける神と出会うことができる。
(2)normative(規範的)側面
当該箇所の記事から規範的なことを捉えるべきだということである。神は聖書に記した具体的歴史の中で語られるが、その出来事を通して命題的な真理(教理)を啓示なさっているからである。たとえばモーセがシナイ山に登って十戒を神から受け取っている間に、麓にいたイスラエルの民が金の子牛を造ってこれを拝むという事件があり、これに対して神は怒りを発せられた。この出来事を通して、私たちは十戒の第一「あなたは、わたしのほかに他の神々があってはならない。」第二「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」という命令を読み取るべきである。また、「神は唯一である」という教理を読み取るべきである。
(3)existential(実存的)側面
「自分だったらどうなのか」と自分を聖書テキストに投入して突き詰め、実存を賭けて読むことである。かりに聖書テキストを神学諸科をわきまえつつ的確に釈義して、そこにある教理を浮かび上がらせ、その手紙の状況や登場人物の置かれた状況を手際よく活写することができたとしても、そこで説教者自身が神のことばに実存を賭けて向き合うことがないならば、今日語られる神のメッセージは聞こえて来ないだろう。実存的な聖書理解のお手本は、アブラハムのイサク奉献について書かれたキェルケゴールの『恐れとおののき』である。実存的聖書解釈には危うさはあるのだが、説教者に実存的姿勢がなければ、説教は単なる話芸、知識の切り売りと堕してしまうだろう。
これら聖書解釈にかかわる3つの事柄を「側面」と表現するのは、三側面は有機的に関係しあっているからである。一応、3段階で説明してきたけれども、必ずしも順番で解釈するわけではない。
以上、3側面をわきまえて聖書に向かい、説教に取り組むことについてメモしてみた。