苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

小さき者をも

Gn35章1−15節
2017年3月12日 苫小牧夕拝

1 信仰の原点へ

ヤコブにとっての信仰の原点は、ベテルであった。兄エサウから逃れてひとりぼっちで荒野を旅していたとき、主がヤコブに現れてくださった場所、それがベテルだった。あの時に主は約束を与えてくださり、ヤコブは主に誓願を立てたのだった。創世記28:13−15そして23節まで。
 その約束の内容は、①主がヤコブにこの約束の地を与えること、②その子孫は増えて世界のすべての民族が祝福を受けること、③主は決してヤコブを捨てないということである。ヤコブはこの恵みに感じてすべての収入の十分の一を主に捧げると誓願を立てた。そして、主は確かにヤコブに約束された通りに常に彼とともにいてくださり、ヤコブにすべての必要を与え、それ以上にあふれるばかりの祝福をくださった。かつて杖一本だけもって着の身着のままで出かけたヤコブは今や二つも宿営をもつほどに祝福を受けるに至っていた。
 主は小さな者、ヤコブに目を留めて、今や彼を大いなる者としてくださった。
 しかし、ヤコブはかつて主が彼に現れてくださった地ベテルまでは、あえて帰ろうとはしなかった。ベテルは神の家という名の場所であった。ヤコブは兄と和解し、住む場所も得て満足してしまって、一族郎党そろって恵みをくださった神を中心とした生活をすることまでは考えていなかったらしい。神がくださる祝福はいただくが、神ご自身には距離をとっておこうという考えだった。だから、彼はシェケムにとどまった。
 しかし、ヤコブはディナの事件で、シェケムを去らねばならなくなる。そのとき主から「ベテルに上り、そこに住みなさい」(35:1)というおことばがあった。ベテルに帰り神とともに住まおうとするならば、身を清めなければならない。それは、特に異教の神々や魔術的習慣を放棄することを意味する。真の神と偶像とを並べて礼拝してはならない。
 十戒 第一「あなたには、わたしのほかに他の神々があってはならない。」
    第二「あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。」
 ヤコブは一族に布告した。パダン・アラムから持ってきた一切の偶像、お守りの類をすべて出しなさい。これから私たちは真の神にお仕えするのだから、それらは処分しなければならない。ヤコブは一族の中でもめるのではないかなあとヤコブが取り越し苦労をして心配したのだが、さしたることはなく、一族はみなさっさと偶像やお守りを差し出して簡単に処分することができたのである。
 案ずるより生むが安しということであろう。何事であれ、私たちが神のみ心を行なうという態度が明瞭であれば、道は開かれてくるものである。私たちが心配しなければならないのは、将来どうなるだろうかということではなくて、今、なそうとすることが神を愛する道であるかということである。それが神を愛する決断であれば、前に進めばよい。それが神を愛する道であれば、目先いろいろあったとしても、最終的には神がすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8:28)。


2.デボラの死

 すぐにベテルにおける神の契約更新が記されるはずのところに、たった一節であるが、ここにデボラという年老いた女性の死が挟み込まれて記されていることは印象深い。

8節「リベカの乳母デボラは死に、べテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バクテ(嘆きの樫の木)と呼ばれた。」(アロンは樫の木、バーカーは嘆くの意味)

 話はいったんわき道にそれるようだが、聖書があえてそのようにわき道にそれているのだから、私たちもあえてわき道にそれて、このデボラというおばあさんのことを味わってみたい。
 聖書にはふたりデボラという女性が登場する。一人は士師の一人であり、もうひとりはヤコブの母リベカのうばである。デボラという名はミツバチという意味である。日本では動物の名をとってお熊さんとか、植物の名からお米さんというのはあるが、虫の名は余り聞かないが、「お蜂さん」というのがデボラの名の意味である。ミツバチがいそがしく働いているように、小さな子どもの世話にてんてこ舞いしているデボラがイメージされてくる。
彼女はリベカがイサクの嫁になるためにパダン・アラムの地を旅立つときに、リベカに伴ってイサクのもとに来た。なぜデボラの死と葬りの記録がイサクでなくヤコブの家族の記事の中に記されているのだろう。もしこの記事はそうしたことを意味しているとすれば、仮説であるが、ヤコブが母リベカの実家に旅立って7年がたったころ、リベカのもとにパダン・アラムでヤコブが結婚をして所帯を営み始めたという知らせを聞き、超ベテランのうばとしてデボラをパダン・アラムへ派遣したのかもしれない。デボラはヤコブの妻たちの、子育て指南をしたのだろうか。ヤコブに次々と生まれた息子、娘の幾人かは、うばデボラに抱いてもらったこともあっただろう。今日の老化の速度ではとうてい考えられないのだが、当時でいえばありえることではある。詳細はよくわからない。
 とにかく、デボラは使用人にすぎなかったが、そういう社会的な関係を超えて、信仰において神の家族の一員となっていたのである。彼女が単にうばという仕事としてでなく、それ以上の愛をもって子供たちや母たちに仕えたからであった。身分的なことを超えて、デボラの存在はヤコブの一族の中ではかけがえのないものとなっていた。
 だからデボラが死んだ時、みなは悲嘆にくれた。デボラばあさんを樫の木の下の穴に葬り土をかけるとき、家族一同は大きな声で泣き、涙を流さないではいられなかった。この木の名がアロン・バクテ「嘆きの樫の木」と名づけられた所以である。

 聖書、神の言葉、神と神の民との聖なる契約の書のなかに、こうした一人のはしためであった老女の死が一節記されていることは、なんとも印象深い。特にヤコブがベテルに帰還した記事と、神の祝福の世界への拡大という内容を含む契約更新をいただくという重大事の記事にはさまれて、このおばあさんの死が記されているということは、なんと印象深いことだろう。
 社会の片隅の小さな存在、小さな務めであっても、愛をもって誠実に果たして生きるなら、それは神様の目には尊いことなのであり、神様の記憶のうちにとどまることなのである。私たち一人一人も特に歴史に名を残すようなことなどない小さな者であるけれども、もし愛を持って誠実にそれぞれの任務を果たすならば、あなたの名は神様の記憶のうちにはとどめていただけるのである。


3.契約更新

 さてベテルに到着し、祭壇を築き、ひざまずくヤコブに神からのことばがあった。10節から12節。まずヤボクの渡しのところで神がヤコブに与えた名を今回、改めて正式にヤコブにお与えになる。その名はイスラエル。10節。

35:10 神は彼に仰せられた。
  「あなたの名はヤコブであるが、
  あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。
  あなたの名はイスラエルでなければならない。」
 それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。

 そして与えられる契約は、私たちに関係している。11節をごらんいただきたい。
「わたしは全能の神である。生めよふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。」
 「一つの国民」でありながら、それは「諸国の民の集い」であり、ヤコブから出たものというのはなんのことであろうか。それはすなわち、ヤコブの家系から出てきた神のみ子イエス・キリストによって召し集められた新約の教会のことではないか。キリストの教会は、ことばの違い、肌の色の違い、文化の違いを超えて、一つの神の民、神の家族である。今から四千年ほど前に神様がヤコブにお与えになった契約は、イエス様によって成就して、世界に神の一つの民が出来上がっているのである。
「ことばに色にちがいあれど、御民はきよき神にありて、
ともに交わり、ともに待てり。
キリスト・イエスの来る日をば。」
 杖一本、着の身着のままで出かけたヤコブは、今や二つの宿営をもつまでに導かれた。とはいえ、ヤコブ一族など当時栄えていたエジプト文明メソポタミア文明から見たら、ほんとうに小さな群れだった。しかし、そのヤコブから、歴史を越えて世界の諸国民から召し出される人々から成る一つの神の民が出てくると言われ、それが成就していくのであるし、それは実現した。
 こんなことがなぜ実現したのか。それは、神は全能のお方であり、ご自分の契約をかならず成就なさる真実なお方であるからにほかならない。


結び
 世界から見たらこの苫小牧は小さな町であり、苫小牧福音教会は小さな群れです。けれども、神様はこの小さな群れを顧みてくださいます。神様の福音を誠実にこの地に証して行くならば、神様はこの群れをも成長させてくださるでしょう。この地に神様が選んでおられる民がいます。みな背景のことなる人たちですが、主の羊は主の御声である福音を聞けば主のもとに集まります。そして、一つの群れとなって、主イエスのあとをついていくのです。
 苫小牧通信を新聞折り込みし始めました。神様これを用いてくださることを感謝します。けれども、印刷物だけで福音が本当に伝わるとは思っていません。福音は人格を通して伝わるものでしょう。パウロも、あなたがたは墨で書かれたのではなく、いける神の御霊によって書かれたキリストの手紙であると言っています(2コリント3:3)。
 お一人一人置かれた家庭、置かれた地域で、職場で、キリストの福音のあかしに生きていきましょう。「この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」キリストの福音の種は小さな私たちという畑に託され、やがて豊かで大きな実を結ぶことになります。