苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

義人ヨブ

数年前のアドベント第一説教です。

1:1ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 1:2彼に男の子七人と女の子三人があり、 1:3その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 1:4そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。 1:5そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。 (ヨブ記1:1−5)


序 今年の待降節ヨブ記を味わいながら、クリスマスに向かって行きたいと思います。ヨブという人は、時代的に言うとイエス様の生まれる2000年前頃の人で、アブラハムと同時代人です。ヨブ記をじっくりと味わうならば、神が人としてこられたことの意義を深く味わうことができます。
 今回は、義人と呼ばれるヨブの人となり、神の前での生きかた、その家庭生活についてです。

1. ヨブの人となり―――潔白で正しい

「ウツの地にヨブという名の人がいた。」とヨブ記は始まります。ウツという場所はエドムの東北、アラビヤ砂漠との境目あたりの地名です。ヨブはアブラハムと同時代の人ですから、まだ神の民イスラエルというものは歴史に登場していない時代でした。イスラエルとは、アブラハムの孫ヤコブに神様が特にお与えになった名前であり、その子孫を意味する名なのですから。
 ついで、「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」とヨブの人となりが紹介されます。「潔白で(tob 完全な)」というのは神様に対してきよい心を持っており、「正しく(yashar まっすぐ)」というのは対人関係においても道徳的に立派な人であったと理解されます。
これが聖書ではなく、他の英雄伝や偉人伝に記されていることならば、私たちは驚かないでしょう。人間の書く偉人伝では、自伝であっても、他の人が書いたものであっても、どうしても美化されているものです。私も小さい頃『二宮金次郎』『野口英世』『エジソン』『キュリー夫人』『豊臣秀吉』といったものに親しみましたが、偉人たちはだれもが美化され理想化されていました。大人になって野口英世エジソン豊臣秀吉がどんな人だったのかということを、他の書物などで詳しく知るようになると、いささかがっかりとさせられることになりました。
けれども、聖書は、人間を描く時、理想化してしまうことがありません。イスラエル民族の歴史にとって最大の英雄といえば、紀元前1000年のダビデ王でしょうが、聖書には彼の美点だけでなく、女好きであったため取り返しのつかない大きな罪を犯した事実もちゃんと書かれています。また、紀元前1500年イスラエルをエジプトから導き出した最大の預言者モーセについてさえも、その人間的弱さや、若い日に気が短くてエジプト人を手にかけて殺してしまった罪が率直に記録されています。紀元前2000年の信仰の父と呼ばれるアブラハムでさえも、聖書記者の手にかかると時にはわが身かわいさに妻を犠牲にしようとした卑怯な行動をとったことも記録されます。ノアは神とともに歩んだすばらしい聖徒でしたが、それでも大洪水が去った時には油断して、泥酔して醜態をさらしたことが正確に記録されています。
それは聖書記者が意地悪であったということではなく、人間の目から見た評価ではなく、聖なる神の前での人間の姿を正確に記したからにほかなりません。
そういう聖書中で、このヨブについては、まったく非の打ち所がないような紹介がなされているのですから驚きです。事実、ヨブはすばらしい信徒であったので、8節でもう一度、主御自身が太鼓判を押していらっしゃいます。
1:8 「【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
私どもも、神を畏れ、隣人に対して誠実でありたいと願います。これが第一点。

2. 仲のよい子どもたち

次いで、ヨブの子どもたちについて記されています。息子七人、娘三人(2節)とあります。彼は、子宝にもめぐまれていました。「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」(詩篇127:3)と詩篇にあるように、彼は子宝という神からの報酬にも満たされていました。
 ヨブの財産はというと、3節にあるように、「羊七千、らくだ三千、牛五百くびき、雌ろば五百、そして非常に多くのしもべ」を持っていて、「東の人々のなかで一番の富豪」でありました。まだ貨幣経済でなかった時代、オリエントの遊牧的生活をしていた地域では、財産としては家畜以外にはありません。彼は富豪でした。
 とはいえ、ナントカ財閥の家族は乱脈で仲が悪いという話をよく聞くものです。「肥えた肉を食べて争っているより、野菜を食べて仲良いほうがよい」と箴言にもあるように、カネはあるけれども争いが絶えないというようなことがありがちです。友人の弁護士に聞くと、仕事の大半は兄弟姉妹たちの間に起こる遺産の相続争いだということです。しかし、ヨブの家は富豪でしたけれども、こういう争いはありませんでした。兄弟たちは、実に仲良く暮らしていました。(4節)
「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。」
 この記事から、ヨブの子どもたちはいつも贅沢三昧をしていたよくない人々だったと読む解釈者もいるようですが、それは間違いでしょう。「潔白で正しく神を恐れ悪から遠ざかっていた」という賞賛に満ちた大文脈から見て、4節に記されるヨブの子どもたちの振る舞いは、彼らの中むつまじいさまを描写しているものと読むべきでしょう。
 この子どもたちの仲良さの秘訣はどこにあるのでしょうか。ヒントを見つけました。ヨブは「彼ら一人一人のために、それぞれ全焼のいけにえをささげた。」とあります。十羽一からげではなく、「一人一人のためにそれぞれ」だったというのです。このあたりに、ヨブの子どもたちの仲むつまじさの秘訣がうかがえるように思います。
「今日も子どもたちが、神様を信じ神様をおそれて生活をしますように。」と祈るのではなく、「太郎がこの日も神様を恐れ、愛して生活できますように。」「花子が、この日の歩みを通して、より深くあなたを知ることができますように。」「次郎が神様にある希望をもって今日も一日元気ですごせるように。」「病弱な道夫が、この日もその病に負けずに・・・」「君子がきょうも・・・」と言う具合に、ヨブは十人の子どもたちを、一人一人、神様から託された大事な宝として愛し取り成し祈り、はぐくんできたのでしょう。
族長イサクとヤコブとは、子どもたちがいさかいを起こして、互いに妬んだり、憎みあったりするのを見るという不幸な経験をしました。その原因の一つは、親である彼らが子どもたちをえこひいきしたからでした。イサクはエサウを偏り愛し、その妻リベカはヤコブを偏り愛しました。エサウヤコブは互いに憎みあうようになりました。ヤコブは十二人のこどものうちヨセフだけを偏り愛しました。やがて、ヤコブは他の兄弟たちから憎まれることになりました。
しかし、ヨブの子どもたち一人一人は、自分のために祈ってくれる父親を見て、ぼくのために、私のために、父が捧げてくれる全焼のいけにえを見て神様を恐れることと、父の愛とを感じることができたのでした。
子どもたちは能力や性格はそれぞれ異なっていますが、それだからといって親から比較差別などされなければ、子どもは安心して自分自身でいることができます。クリスチャンの親としては、一人一人の子供を、それぞれに神様に託された個性と賜物ある人格として、愛することです。子どもたちは主の賜物です。神様がくださったひとりひとりの個性ですから、それぞれを喜ぶことです。このことをヨブに学ぶ第二点としましょう。

3.神を畏れる人とは

 子宝に恵まれ、富豪であり、しかも、その子どもたちは円満この上ないというのです。これ以上のことは望みようがないというのが、この世の一般的な見方でしょう。ヨブにあっては、「家内安全商売繁盛」で人生の評価がつきるということではありませんでした。5節。
「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」
これこそヨブが義人と呼ばれる所以です。家内安全商売繁盛というのは、ヨブにとっては一番大切なことではありませんでした。そうしたものが神様からいただけるならば感謝して受ければよいことですが、ヨブにとってこれらは必須のものではありませんでした。
ヨブは聖なる神を畏れていました。彼は、わが子たちが自分の知らないところで罪を犯しているかもしれないと懸念していました。「私の息子たちがあるいは罪を犯したのではないか」と考えました。いや、それどころか、かりに人の目に見える範囲では道徳的にまじめに生活をしていても、またいつも神様を礼拝する生活をしているとしても、もしかすると「心の中で神を呪ったかもしれない」と考えたというのです。
特に「心の中で神を呪ったかもしれない」という表現には、今回つくづくと考えさせられました。私は、子どもたちが主日礼拝に出ている、それでこと足れりと安心し切っていたのではないか。確かに子どもたちと一緒に礼拝できることは幸せなことです。けれども、ヨブは「子どもたちの心の中はどうなのだろうか?心の中で神を呪ったかもしれない。」と考えたというのです。うわべのことではなく、子どもの心の中にまで思いをはせていたのです。これこそ、神を畏れる人の視線です。
 子どもがそれぞれ健康で、学校に通っており、成績もまあまあで、特に先生から呼び出しを受けるようなこともないというと、世の多くの親はそれで安心というものでしょう。もちろん、クリスチャンであれば、その子がイエス様を信じて洗礼を受けて天国への道筋が見えていなければ、満足などするはずがありません。たとえ全世界を得ても、永遠の命を持っていないならば何も持っていないのと同じことですから。ですから、子どもが礼拝に出て洗礼を受けたら、一安心と思うでしょう。
洗礼に子どもが与るのは実にすばらしいことです。けれども、ヨブを見ると、それで一安心ということで済ませてよいのかというと、実はそうではない。道徳的に社会的に経済的に問題なく生活して、その上、毎週礼拝に出席していても、子どもたち一人一人の心の中はどうなのでしょうか。ヨブは「もし子どもが心の中で神を呪っていたら・・・」と恐れたのでした。
考えてみれば、当然のことです。人はうわべを見るが、主は心をご覧になるのです。
そこでヨブはどうしたのでしょうか。彼は、「祝宴の日が一巡すると、彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた」のでした。

これを私たち新約の時代の私たちキリスト者に適用するならば、どういうことになるでしょうか。イエス様による罪の贖いは完成したのですから、もちろんいけにえを捧げる必要はありません。けれども、親として子どもたちのために、とりなし祈ることが必要です。しかも、単に健康であるようにとか、仕事がうまくいきますようにとか、勉強ができますようにとかいう祈りではなく、・・・・そういう祈りもすべきですが・・・、わが子がイエス様の十字架の贖いをはっきりと信じて、神様を愛する人として成長していくことができるようにと祈るべきです。
この子はしっかりと神様と結びついているか。神様を愛しているか、神様にしたがっているか、これがヨブの子どもに関するなによりの関心事でした。
 かりに子どもの肉体に欠陥があるとしたら、それはつらいことです。でも、それはやがて過ぎ去ります。また、子どもがよい会社に入れたら安心かもしれませんが、それでその子が幸せになるとはかぎりません。やがてそれも過ぎ去ります。「人は全世界を得ても、まことのいのちを損じたらなんの得がありましょう。」と主イエスはおっしゃったではありませんか。その子の永遠にいたるまことの幸せは、その子がまことの神様を知り、従っていくことをおいてほかありえないのです。ヨブの子どもたちは、このあとサタンのもたらした災害で一度に死んでしまいます。ヨブにとっては大きな傷手です。気がふれてしまいそうな悲しみです。しかし、あえて言えば、子どもたちはみな神の御前に罪を赦され、永遠のいのちを得ていましたから、究極的には安心していてよいことでした。
 私たち自身が、なによりも第一に求めるべきこと、そして、私達がほかのことを置いても子どもたち一人一人のために第一に求めるべきことは、主イエスを信じ神を愛して生きるということにほかなりません。

むすび
 義人ヨブ。その生き方は、神を心の底から畏れ、隣人に誠実で、神の託された子どもたち一人一人を愛するということでした。やがて、このヨブに苦難が降りかかってきます。それはまた来週。