苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の家ベテルへ

創世記33:18−35:4
20170305 苫小牧夕拝

1.ベテルに行くことを躊躇して

 兄との再会が神の守りのうちに終わり、ほっと胸をなでおろしたようなヤコブとその一族でした。そして、シェケムの町のそばに宿営を張り、そればかりかこの地をシェケムの父ハモルの子らから買ったのです。一時的な宿りであれば、土地など買うわけはありません。ヤコブはこの地に定住するつもりなのです。彼はここに祭壇を築き、そこをエル・エロヘ・イスラエルと名づけました。一連のヤコブの歩みは、一見すると、ごく模範的なものと思えます。
 ところが、実は、ここにヤコブの心に隠された問題がありました。そして、このヤコブがシェケムのそばに定着しようとしたことが発端となって、恐ろしい事件が起こることになるのです。ヤコブの娘ディナがこの世に誘惑されてシェケムの男に犯され、その復讐として息子たちがシェケムの人々を虐殺したのです。
 20年前、ヤコブが一人ぼっちで故郷を出た旅路で石を枕にして寝たことがありました。不安で一杯のヤコブに対して、主は天から下されたはしごとご自身の御臨在とみことばによる啓示を持って、ヤコブを励ましてくださいました。創世記28:13−15。これがヤコブの信仰の原点となりました。このとき、ヤコブはこの地をベテルつまり神の家と名づけたのでした。主は「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れもどそう。」とおっしゃいました。20年が経ち、ヤコブに主が現れたときにも、主はヤコブに対して「わたしはベテルの神」とおっしゃったのです(創世記31:13)。それにもかかわらず、ヤコブはもう目と鼻の先にまで来ている、そう40-50キロメートル南にあるベテルまであえてたどり着こうとはしませんでした。あえてベテルに距離を置いて暮らし始めたのです。
 なぜでしょうか?次の章35章1-4節を読むとその理由がわかります。ヤコブがカランの地から連れてきた一族郎党のうちには、カランの地の異教的な偶像崇拝の習慣がしみついていたのです。彼らは偽りの神々の像や、お守りの類を持っていたのです。そういえば、妻のラケルも父親の守り神の偶像テラフィムを持って来ていました。ヤコブ自身はこういうものを拝みはしませんでしたが、彼の一族には異教的な習俗が入り込んでいることをまあまあと妥協し容認していたのでした。ヤコブはベテルに上るとすれば、こうした異郷の偶像崇拝、お守りの類、すべては処分しなければなるまいと考えたわけです。なぜならば、ベテルは神の家、神の御臨在がある場所です。神とともに住まうのに、偶像の神々やそのお守りを持っていくことはできないと思っても、一族が習慣的にもってきたものを簡単にやめさせるわけにもいかないと感じていたらしいのです。そこで、彼は偶像を処分するより、ちょっとベテルから離れたところで生活をしようとしていたのです。
 ヤコブの心の思いを代弁すれば、「一応、約束の地に帰ってきたことだし、兄エサウとも仲直りできたし、これ以上、大きな問題はないのだから、まあこれからは神の家に近よりすぎず、また遠ざかりすぎず、世の人々とともに適当に妥協しながら暮らしていけばいいだろう。」というようなことでしょうか。
 しかし、これは主のみこころにかなわないことでした。
 ベテルとは神の家です。新約聖書の用語では、教会を意味することばです。1テモテ3:15「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱、また土台です。」
なにか大きな問題をかかえてイエス様を信じるようになり、そうして問題の解決を得ることができたとき、もう問題はないから教会にはいかないでぼちぼち自分流に適当に信仰生活をしていればいいやというような態度がヤコブの態度でした。
 結果、恐ろしいことがおこることになりました。


2.娘ディナ

 ヤコブの子どもたちは11人までが息子たちでしたが、一人娘ディナがいました。きっとちやほやされて育ったことでしょう。ディナはどうやらこの世的なことがらに好奇心の強い娘だったようです。パダン・アラムの地からはるばる引っ越してきて、シェケムの町のそばに宿営をはったとき、ディナはシェケムの娘たちの様子に心惹かれました。それというのは、当時このカナンの地は東はメソポタミア、南はエジプト、東はギリシャ方面のの文物が行き来する交差点であり、ディナの見たこともない派手な服装やお化粧をした人々がこの町を行き来していたからです。道徳的になにかと堅苦しいところのある自分の家とはちがって、なんだか自由であるような、素敵であるような気がしたのです。
 でも父ヤコブや母レアは、「あの町に近づいてはいけない。あれは不道徳な町なのだ。」というのです。けれどもある日、ディナはこっそりと家を出てシェケムの城門をくぐったのです。1節。見るもの、聞くものすべてが珍しく感じられたのでしょう。そして、ディナはほどなくこの町と同じ名前のシェケムという青年に見初められることになるのです。シェケムはこの都市国家の王の息子でしたから、小さな国の王子という立場です。そのシェケムがディナに優しく声をかけました。ディナは有頂天になったでしょう。王子様に声をかけられた、私はそんな魅力的な女なんだわと、虚栄心がむくむくと湧きあがって来たにちがいありません。
 シェケムはディナを自分の屋敷に連れ込み、そして、力ずくで彼女を犯し我が物としてしまったのでした。ことここに至って、ディナはようやく自分がとんでもない誘惑に乗ってしまったと気づいたでしょう。でも、もう遅かったのです。「肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢」というこの世の欲に誘われて、ちょっとくらい、という心の隙があると、そこからサタンの誘惑ははいりこんで取り返しのつかないところまで引きずりこまれてしまうのです。

 シェケムは、泣きじゃくる娘ディナにねんごろに語りかけ、ディナを娶りたいと思いました。そして父に願ったのです。4節。この地の人々にとっては、自分が好ましいと思った女はまず犯し、それで気に入ったら、正式に相手の親に言うというのが当たり前というか、朝飯前というような具合だったようです。ですから、このシェケムにしても、その父ハモルにしても、なにも悪びれたところがありません。堂々と、ヤコブに対して娘さんを当家の嫁にくださいと申し込むことができたわけです。8節。

 しかし、この出来事は、ヤコブの家にとっては、まことにとんでもない出来事でした。この事を聞いた直後のヤコブの沈黙には恐ろしい暗さがあります。ヤコブの息子たちは、自分たちの妹がシェケムの息子に陵辱されたと聞いて、激しく憤りました。7節。格別、この後、母を同じくするディナの兄、シメオンとレビとは特に怒りました。そして、策を企ててシェケムの人々を殺してしまうのです。当然のことながら、彼らの行動は誉められたことではありません。非難されるべきです。実際、彼らの怒りはのちに神によって呪われることになります。
 けれども、です。けれども、彼らの清さに対する求めの激しさは、異教徒には見られないものでした。彼らの道徳的基準では、自分たちの妹の操を犯されるということは、これほど大きな報復をすべきことであると感じられたのでした。

 問題はあの娘ディナです。彼女は文脈から見ると、どうやらシェケムに犯された後も、このシェケムの家に留まりつづけていたようです。彼女は、この世の欲に心惹かれて、この世といっしょに滅びてしまうような状況に身をあえておいたのです。このまま行けば、自分は、ゆくゆくはこの都市国家の王の后となることができるとでも思っていたのかもしれません。
 肉の欲、眼の欲、暮し向きの自慢。これらを聖書はこの世の欲と呼びます。ディナはまさにこの世の欲に絡め取られてしまったのです。 私たちが生きている時代は欲望の時代です。そして、その欲望を満たすことを求めることが悪しきことであるとさえ思われなくなっているのではないでしょうか。肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢。セックス、お金、世間的な名声、こうしたことを満たすことに憂き身をやつして恥じるところを知らないのが神を知らない現代日本人です。


結び
 日本同盟基督教団の教理問答27に次のようにあります。
「神は主にある者をこの世で守られるため、保護の備えをしておられますか。
答え はい。しておられます。それは、教会です。」
 ヤコブはベテルまで行くのを恐れました。ベテル、そこは神の家、神の臨在したまうところであったからです。神の家に行くとなれば、この世のものと決別しなければならなかったからです。そうして、神の家に距離をとって、この世に足を突っ込んで生きていこうとしたのでした。その結果、娘は滅びの町に奪われ、息子たちは怒り狂って殺人劇を繰り広げるという恐ろしいことになってしまいました。ヤコブが、もどるべき神の家にただちに戻ったならば、きっとこんな事件は起こらないで済んだことでしょう。
 私たちも主を信じるというならば、しっかりと神の家、教会に根ざした信仰生活を送りたいものです。そうしてこそ、神様のために実を結ぶ生涯を送ることができるものです。