苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖なる貪欲

創世記25:19−34
2016年12月18日 苫小牧

25:19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。
25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。
25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして【主】のみこころを求めに行った。
25:23 すると【主】は彼女に仰せられた。
  「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。
  一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
25:24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。
25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。
25:26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
25:27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
25:28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。
25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
25:30 エサウヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。
25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。
25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
25:34 ヤコブエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。


1.双子が宿る

25章のアウトラインは以下のとおりです。
1−6節 アブラハムの後妻ケトラと子たち。 6節の知恵。争いの種を残さない。
7−11節 アブラハムの死
12−18節 イシュマエルの系図
19節以降、イサクの歴史
今晩は19節以下のイサクとリベカに生まれた二人の息子エサウヤコブの記事を味わいたいと思います。弟ヤコブが族長三代目となりますが、そうなるまでには双子の兄エサウとの確執があります。それは、二人が母親のおなかから出てくる前からのものなのです。

25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。

 とあるように、イサクが結婚したのは40歳でしたが、妻リベカは不妊の傾向がありました。40歳で結婚しましたが、「イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。」と26節に記されていますから、父アブラハムの場合に似てイサクとリベカは結婚後20年間も待ち望んでやっと生まれるのです。しかし、イサクは、自分も不妊の母サラから生まれたので、主はかならず自分たちにも子を授けてくださると信じていましたので、主に祈りました。そうして、主はイサクの祈りに答えてくださったのです。このあたりもイサクは父から信仰の相続を受けていたことがわかります。21節。

「25:21 イサクは自分の妻のために【主】に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。【主】は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」

 二十年も待ち望んで与えられたおなかの赤ん坊ですから、どれほど嬉しかったことかと思います。ところが、リベカがみごもって数ヶ月たつとおなかの中がバタバタとしていてリベカは何事かと不安になってしまいました。おなかの赤ん坊が元気なのはうれしいことですけれど、元気すぎておなかが破れてしまうかと思うほどです。医者がいたわけでもありませんし、超音波で見ることができるわけでもありませんから、異常を感じてもその内容を確かめようもなかったのです。そこで、彼女は「主のみこころを求めに行った」(22)とあります。アブラハム以来いつも礼拝を捧げた祭壇の場所に出かけたのです。
 すると、主から御言葉がありました。それは彼女のおなかの中に双子が宿っていること、やがてその双子から二つの民が現れること、将来、弟の民のほうが、兄の民よりも強くなることといった内容の預言でした。つまり、おなかのなかにいたときから、この兄弟は仲が悪くて取っ組み合いの喧嘩をしていたのです。

「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。
  一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(23節)。

 弟の子孫はイスラエル民族となり、兄の子孫はエドム民族となって行きます。「兄が弟に仕える」とある通り、この900年ほど後のダビデの時代になると、エドム国はイスラエルの属国となります。イエス様の時代にローマ帝国によって立てられたヘロデ王家の傀儡はエドム人、つまりエサウの子孫です。


2.個性的な二人

 十月十日がすぎて、はたして、預言のとおりリベカは双子を生みました。生まれてきた子どもは、なんとも対照的でした。エサウは毛深い赤ん坊でした、弟は兄のかかと(アケブ)をつかんで出てきたのでヤコブと名づけられました。おなかの中でレスリングをしていたこの二人は、お母さんの腹から生まれ出てくるときも、競争をして、エサウが勝ちました。おなかの中にいたときから、エサウヤコブとはあい争う仲の悪い兄弟だったのです。
 
 さて、やがてこの子どもたちは元気に成長していきましたが、二人はまるで好みも性格も風貌も異なる青年になりました。27節。「エサウはたくみな猟師、野の人」。いつも外で遊びまわること、乱暴なことが好きな人になりました。彼は父の好みでした。「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」というやつでしょうか。
 他方ヤコブは「穏やかな人となり、天幕に住んでいた」とあります。兄は外で活動的なことが好きで、外に遊びに行ったら鉄砲玉みたいに帰ってこないアウトドア派ですが、ヤコブは時間があると静かにもの思いにふけるインドア派の青年になりました。今風に言えば、全身毛むくじゃらのマッチョマン兄エサウが趣味は野球とかサッカーとかハンティング。弟ヤコブの趣味は読書と音楽鑑賞といったタイプのちがいということになるでしょう。ルナール『狐物語』の狼のイザグランと狐ルナールを思い浮かべます。

 父がエサウをかたより愛することに対する反動もあったのかもしれませんが、母リベカは弟イサクを愛するといったことになりました。まあ、たとえばエサウは母の日がきたってそんなことは忘れて野球の試合に出かけているのですが、ヤコブの方は母の日といえばカーネーションをプレゼントするようなタイプの青年だったのです。

 ほんとうにこの二人の個性は対照的でした。まあ、人間としてどちらが良いとも悪いともいえないと思います。好みの問題でしょう。神様はいろいろな人を造られましたから、いろいろな個性の人があってよいのです。アウトドア派もよし、インドア派もよし、スポーツ好きも良し、読書好きもよし、つるつる肌もよし、毛むくじゃらもよしです。
ただ、私たちがイサクとリベカから反面教師的に学ぶとすれば、自分の好みで個性をもった子どもたちをえり好みしたり、差別したりしないことです。そうすると、兄弟・姉妹たちの心に傷をつけ、仲たがいをすることになってしまいます。


2.聖なる貪欲

 人にはそれぞれ個性があっていいのです。神様が個性をお与えになったのですから。けれども、個性といった次元とは別に、この日、神様の御前に決定的に二人の人生をわける出来事が起こりました。神様の前に祝福にあずかる人生と、神様の祝福を失ってしまう人生です。この点は、私たちは目を覚ましておくべきです。
 29節以下です。エサウはいつものように狩に出かけましたが、この日は一匹の獲物も手に入りませんでした。腹を減らしてエサウが帰ってくると、いい匂いがしてきました。ヤコブが豆を煮ていたのです。いつもならば、「へん。ヤコブ。情けないやろうだ。ちまちま豆料理なんかしやがって。男は、自分の腕でつかまえた鹿やイノシシやクマを食うもんだぜ。」などというのでしょうが、このときはそうではありませんでした。釣りで言えば「坊主」です。30節。

25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
25:30 エサウヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。

 すると、ヤコブは待ちうけていたチャンス到来とばかりに言ったのです。31節「今すぐ、あなたの長子の権利を売りなさい。」 この長子の権利ということについて、説明が必要です。長子の権利というと、私たちは少し前の日本では長男が全財産を相続することというイメージが思い浮かんできますが、そういうことだけではありません。イスラエルでは、長子は他の兄弟の二倍の財産を相続することができました。二人の場合だと、かりに3億円遺産があれば長子は2億円、次男は1億円です。でも長子の権利には財産のことだけでなく、もっと本質的に特権が伴っていました。それは、祭祀権です。つまり、一族のなかで神様に特別な意味でお仕えする権利と義務が長子の権には含まれていたのです。家族のために日々神様の御前に出てとりなしいのり、礼拝の儀式を司るという権利と義務です。いわば、一族の中で祭司のような働きをするのが、この祭祀権です。そして、この祭祀権は長子の権利に含まれていたのです。
 ヤコブはいつも「どうして、ぼくは生まれるとき、エサウ兄さんに出し抜かれてしまったのだろう。兄さんは、お祈りをすることも、賛美をささげることも、全然つまらないと思っている。いつも山や野をかけずりまわることが大好きだ。僕は、神様にお祈りをささげ、神さまにお仕えすることが大好きだ。それなのに、長子の権は兄さんが持っていて、ぼくにはそれがない。」と悔しい思いをしていたのでしょう。ですから、いつか機会を捕えて、兄エサウから長子の権を奪い取りたいものだと願っていたのです。

 「今すぐ、あなたの長子の権を私に売りなさい。」

ヤコブはチャンス到来と思って言いました。すると、エサウはいとも簡単に、長子の権をヤコブに売り払ってしまうのです。32,33節。ヤコブが宝のように思っていた長子の権―― 一族の長として神様にお仕えするという権利――は、兄エサウにとってはただのめんどくさい義務でしかなかったのです。エサウにとっては、茶碗いっぱいのレンズ豆の煮物のほうが、主にご奉仕すること、主に礼拝することよりも価値あるものだったのです。
 34節に神様からの恐ろしい裁きのことばがあります。

ヤコブエサウにパンとレンズ豆を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」

 新約聖書ヘブル書12:16も言います。「また、不品行の者や、いっぱいの食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」
 エサウは俗悪な者(ベベーロス)と呼ばれているのです。この「俗悪な」ということばは、「聖なる(ハギオス)」と対照的に用いられることばです。神様は「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」とおっしゃいました。聖なるものとは、具体的には、神様を礼拝すること、神様にお祈りすること、神様にお仕えすることです。こうした聖なるものの価値をまるで認めない者を俗悪な者というのです。食べること、飲むこと、着ること、社会的な名声、地位、カネ、快楽、こうしたものには関心があり、一生懸命求めるけれど、神様に礼拝すること、聖書を読むこと、祈ること、奉仕することについては無関心な人、それが俗悪な者です。エサウはいわゆる世間的にはよい人かもしれません。実際、性格がさっぱりとしたいい男です。しかし、神様の御前には俗悪な、滅ぶべきものでした。
 
 他方、ヤコブは狡猾な人でした。兄をだまして長子の権利を奪い取ったのです。その手法は決してほめられたことではありません。けれども、ヤコブには神様の御前にすばらしいことがあります。それは、ヤコブが聖なるものを心から追い求めていたということにほかなりません。聖なる貪欲とでも申しましょうか。
 神様は、この後ヤコブのずるいところ、策略的なところを生涯をかけて、取り除いて精錬して行かれますが、ヤコブのこの聖なる物に対する渇き、神様ご自身に対する渇きはよしとされたのです。聖なるものへの貪欲はヤコブの取り柄でした。


結び
 この世は、一見魅力的なものに満ちています。私たちの心を神様から引き離そうとする悪魔の誘惑に満ちています。あなたには、ヤコブほどの聖なる物へのかわきがあるでしょうか。神様との交わりのチャンスを、ほんとうに慕い求めているでしょうか。それとも、俗なるものを求めているのでしょうか。俗なるものを求めて、ついには神様からの祝福を失ってしまったエサウのような者ではなく、神を求め神様への礼拝、交わり、みことば、神様へのご奉仕、こうしたものを慕い求める者となろうではありませんか。

ヨハネ2:15−17
「世をも、世にあるものをも愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父に対する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」