苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

心を洗え

マタイ15:1−20


1 手洗いの言い伝え

 江戸時代の終わりに日本にやってきた欧米人の書いたものを見ると、異口同音に「日本人は世界一清潔好きな民族で、江戸の庶民は毎日のように入浴する。」と書いています。「食事の前には手を洗いましょう」日本では、保育園や小学校で習います。日本らしい習慣でしょう。
エス様のいらした時代、パリサイ人や律法学者も食前の手洗いを勧めていました。しかし、それは衛生のためではなく、彼らの宗教儀式としてです。ちなみに旧約聖書には食前の手洗いの律法は見当たりませんから、これは昔律法学者の誰かが思いついて作った戒めだったようです。そうして、彼らは手洗いの戒めなどさまざまな戒めで民の生活を指導し、縛っていました。
 おそらくもともとの手洗いの意味は古代イスラエルでも衛生のためであったろうと思われます。そのうち、神様がくださったパンなのだから、それを食べるときにはきれいな手で食べるべきなのだ、だから手を洗うべきだという意味づけがされたのでしょう。さらに、「清めのために手を洗うというのはどういうことだろうか」ということが学者たちの間で厳密に議論され、その儀式が厳密に規定されることになります。律法学者たちの手洗いの戒めによれば、まず水についていえば、手を洗うには器にためた水ではだめで、流し水でなければならない。洗う部位についていえば、手首から先でなく、ひじから先を流し洗わねばならないとされていたそうです。
 ところが、エルサレムの総本山の律法の専門家たちの気に食わないことに、最近ガリラヤの田舎に登場し、民衆の注目を集めているイエスという男とその弟子たちは食前に手を洗おうとしないというのです。そこで「けしからん」というわけで、わざわざ学者たちは、エルサレムから下ってきて、イエス様と弟子たちの食卓にまでやってきていうのです。「ご飯の前には手を洗いなさい!」うーん、暇と言うか、なんというか。

15:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
15:2 「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」

 旧約時代でも今の時代でも、神の民にとって、食事について一番肝心なことは、神様に感謝をして食べること、兄弟姉妹とお互いの喜ばしい愛の交わりを深めることです。けれども、律法学者たちのぶしつけな言動によって、すっかり食卓から感謝や喜びが失われて、そこは論争の場になってしまいました。
 イエス様はこの出来事をきっかけとして、「人間の言い伝えに縛られること」の問題点を明らかにしてくださいます。


2 人間の言い伝えと神のことば

 言い伝え主義の問題点についてイエス様は次のようにおっしゃいます。手を洗う儀式、その洗い方に異常なまでにこだわる彼らの宗教性の本質について話されるのです。

15:3「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」

 もともと食前に手を洗う儀式には意味があったのです。衛生的であること、食事のパンも神様がくださったものだからきれいな手で扱い食べるのがいいじゃないかということです。けれども、その形を重んじるあまりに、だんだんとおかしくなってきました。そのうち本来の感謝や衛生の意味は失われて、形を守ること自体が目的化されてしまうのです。本来の中身を見失って、形だけを守ることが目的になってしまうということは、形式主義がつねに陥るあやまちなのです。
 たとえば、日本には半返しという習慣があります。もともとは、なにか贈り物をもらった時にあまりにも嬉しいので、自発的にお返しをしたということが始まりでしょう。それ自体は感謝を忘れがちな私たちを支える、よい習慣なのでしょう。でも、何かもらったら必ず半分返さねばならないという形式になっていきますとおかしくなります。すると、「もう半返しがめんどくさいから、贈り物なんてくれなければいいのに。」というふうに、多くの人が思うようになったり、「あの人に1万円の贈り物をしたのに、お返しは3000円程度だった。けちだなあ。」と心の中で不平をいうという馬鹿げたことになっていたりします。こういう状況では、本来、「おめでとう」「ありがとう」という贈答の中身がすでに失われてしまっているわけです。形式主義というものは、中身を失わせるのです。私たちは時々、習慣となってしまった事柄の意味を反省して意味ある生き方をすることが必要です。

 形式主義の過ち、先祖の言い伝えを重んじすぎた過ちの実例として、主イエス十戒の第五番目を取り上げて話をなさいます。

15:4 神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。 15:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、 15:6 その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

 「あなたの父母を敬え」という戒めは誰でも理解できるでしょう。父母を敬うことの実践として、Aさんがお母さんにプレゼントするよと約束したとしましょう。ところが、Aさんはお母さんとちょっとしたことで喧嘩をして、むかむかしてもうプレゼントする気がなくなってしまいました。そのとき、律法学者に相談したら、律法学者は「そうですか。そういう場合は、『あなたの父母を敬え』という戒めに勝るのは、『あなたの神である主を礼拝せよ』ということだから、「その贈り物は神へのささげものになった」と宣言すれば、お母さんに上げる必要はなくなります。」と教えたようです。
 律法の専門家の理屈はそのとおりですが、その理屈によって、実質的には神のことばをないがしろにしてしまっているわけです。しかも、神様への聖なるささげものを出汁にして、親孝行をしないですむようにしているのですから、実にけしからんことです。ほんとうなら学者さんは「Aさん、お母さんと仲直りしなさい。そうしてせっかく用意した贈り物を差し上げなさい。」とアドバイスすべきところではありませんか。
 このように、「神の命令の根本精神をないがしろにして、ことばのつじつまあわせを君たちはしているのだ」とイエス様は律法学者たちを非難するのです。神の命令の根本精神とはなんですか。それは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということにほかなりません。愛を抜きにしてことばのつじつまあわせをすることが、律法学者たちの陥った罠でした。私たちは神のご命令の大きな木の幹と枝とを区別しなければなりません。木の幹とは、神を愛せよ、隣人を愛せよ、です。この大目的のために、すべての戒めはあるのです。

15:7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
15:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
15:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 神のことばの専門家である律法学者・パリサイ人たちが、こうした過ちに陥っていたのは深刻な問題です。彼らは、言い伝え・伝統を重んじすぎて、神のことばを実質的に無にしていたのです。


3 罪は心の底に


 しかし、律法学者たちは主イエスの警告を受け入れませんでした。専門家のプライドのせいで「自分たちはエルサレムの本山の律法の専門家だぞ、ナザレの田舎教師になにがわかるものか、というかたくななこころだったからです。

15:12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。 15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

 残念なことです。
 律法の専門家であった学者・パリサイ人たちの形式主義、儀式主義の誤りの原因はどこにあるのでしょうか。イエス様は、それは彼らが人間の罪けがれの問題は、何か表面的なものであると考えているところにあるのだと、話を深めて行かれます。だから、何か口からはいるものが汚れていると体が罪深く汚れた状態になるというふうに考えることになるのだ、と。しかし、イエス様は「口から入る物は人を汚さないのだ」と断言します。さらに、「口から出るものが人をけがすのだ」、と。
 口から出るものとはなんですか。ことばです。心の中にあるものが、ことばとして出てきます。その心が汚れているから、ことばも汚れてしまいます。そして、そのことばを聞く人々の心をも汚してしまいます。

15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11 口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」

そこで、魚を取る専門家ではあっても律法の素人であったペテロは、イエス様に「私たちに、そのたとえを説明してください。」と言いました。イエス様はおっしゃいます。

15:16「あなたがたも、まだわからないのですか。 15:17 口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。」

 律法学者がなにか専門用語を使って高尚な律法の議論をして、民衆を煙に巻くので、イエス様はあえて卑近なことばで説明なさいます。「ペテロよ。口で食ったものは、腹に入って糞になって便所に捨てられるだろう。だから、口からはいるものは人を汚さないんだよ。」というわけです。
 では、なにが人を汚すのか。それはどこから来るのか。それは人の口から出てくることばです。そして、その汚れたことばは、人の心の奥底から出てくるのです。人の罪の問題は、うわべの問題ではなくて、もっと深刻な問題であり、人の内面の問題なのです。聖なる神の前における人の罪の問題は、うわべだけ、かたちだけ整えたら、なんとか解決できるということではないのです。
 罪は人の心の最も深いところに潜んでいるのです。日常的には品行方正な人であって、他人が彼はすばらしい人だと評価しているとしても、すべての人の心の底には罪がどろどろと沈んでいます。ですから、何もないときには平安な気持ちでいて、にこやかに振舞っていて、自分でも「けっこう、私はいい人間じゃないの。かなり徳を修めたかなあ。」などと自己満足していても、誰かに痛いところを突かれたりすると、バーッと怒り噴き出してきたり、サタンに誘惑されると手もなく罪に陥ってしまうということがあります。
 私たち人間の心の底には、罪が淀んでいるのです。主イエスは続けます。

15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

結び 主イエスにきよめていただく

 私たちの罪はうわべのものではありません。心の奥底にあるものなのです。それは、最初の人アダムがまことの神様に背いて堕落して以来、人間のなかに入り込んで来たものであって、ふつう原罪と呼ばれます。それは哲学によって解決することはできませんし、教育によって解決することもできなければ、なにか苦行をすることによって解決できるわけでもありません。
 罪の性質は、アダムが神に反逆したことによって生じたものです。神に反逆したために、きよい神様のいのちが人間の心に届かなくなったので、人の心にはきよさが失われて汚れてしまったのです。したがって、私たちの心がもろもろの汚れからきよめられるためには、きよい神様とのいのちの交流が回復しなければなりません。このきよい神様とのいのちの交わりを回復するために主イエスは、人間となって私たちのところに来られ、あの十字架の上できよい血潮を流してくださいました。主イエスの血潮によって私たちの奥底にひそむ罪と汚れはきよめられるのです。これが唯一の道です。主イエスの十字架の血潮のほかに、解決の道はありません。

「胸の奥にひそむ罪とけがれに
 ひとしれず悩むは誰ぞ誰ぞ
 すがれイエスに イエスの愛に
 心は平和と喜びに満ちん」