苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

からである

創世記2章4,5節
新改訳第二版
これは天と地が創造されたときの経緯である。
神である【主】が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

口語訳
これが天地創造の由来である。
主なる神が地と天とを造られた時、 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。

文語訳
ヱホバ神地と天を造りたまへる日に天地の創造られたる其由來は是なり 野の諸の灌木は未だ地にあらず野の諸の草蔬は未生ぜざりき其はヱホバ神雨を地に降せたまはず亦土地を耕す人なかりければなり

新共同訳
これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。


 新共同訳聖書だけが「からである」「ければなり」に当たる言葉がない。ヘブライ語ではキーという。新共同訳はたいてい、こういう接続のことばは訳出しない方針のようである。
 この「からである」は興味深い。潅木も草もなかったのには二つ理由がある。第一は主が地に雨を降らせなかったから、第二は土地を耕す人がいなかったから、である。第一の理由はわかりやすいが、第二の理由がわかりにくい。人間が耕さなくったって、潅木や草は生えるだろうにと思うのが素朴な感想であろうが、この「からである」は、神が人間に地を耕す任務を授けられたことを意味している。