苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

今風の聖書学は自覚せずに理神論になっているのではないか

 神は被造世界を創造し、かつ、これを摂理によって統治する。神は通常は、被造物である法則を道具として被造世界を摂理しておられるけれども、時折、みこころのままに被造世界に介入し、その法則を停止したり、あるいは、その法則を強化することによって被造世界に、奇跡や啓示を行なわれる。奇跡とは、権威あることばによって無から万物を創造なさった創造のわざと同質の行為である

 神は世界を造りはしたものの、あとは被造世界の自律的運動に任せていて、そこに介入するようなことはないとするのは理神論(deism)であって、聖書的な有神論とは異なる。18世紀の啓蒙主義時代に流行するようになった神観を理神論(deism)という。19世紀以降の自由主義陣営の聖書学者たちは、啓蒙主義神学を超えたという自負を持っているから、そのほとんどは口では理神論を否定するのだが、聖書の扱い方に関しては、理神論的世界観由来の方法で聖書を扱うことが「学問的」だということになっている。

 例えばこんな文章はどうだろう。「聖書の各巻は真空状態で天から降ってきたものではなく、歴史的・文化的背景がある中、使徒その他の信仰者のペンによって記されたものです。各巻にはそれぞれ特徴ある背景があるので、その背景を丁寧に調べつつ、各書の特徴を把握することが、私たちの聖書理解を豊かなものにします。」

 問題は、「天から降ってきたものではなく」ということばである。聖書は、新約聖書の各書は「天から降って来た」つまり神によって啓示されたものである。(下の方で引用するようにパウロは、福音は文化現象でなくイエス・キリストの啓示なのだ。)だが、それは「真空状態で」ではなく、具体的な歴史的また文化的背景の中で、使徒その他の信仰者のペンに成るものである。だから、聖書には神の言葉としての性質と人の言葉としての性質の両面がある。新約聖書の各書は天から降って来た啓示であるが、それは真空状態でなく、具体的な歴史的文化的背景を持つ記者たちを用いてのことである。

 もし聖書が「天から降って来た」こと、つまり超自然的由来を否定して「具体的な歴史的また文化的背景がある中で、使徒その他の信仰者のペンによって記されたものである」とすると、新約聖書は歴史的また文化的背景の中で生じた文化現象の一つであるということになってしまう。そういう学者は歴史的・文化的背景から新約聖書を説明すれば、聖書は正しく分かったというふうに考えるわけである。これはおしなべて今風の聖書学者が普通に行っていることである。ブルトマンはヘレニズム的背景から新約聖書特にヨハネを解釈しようとしたが、今日NPPなどの傾向では第二神殿期のユダヤ教的背景からパウロを解釈することが流行している。

 だが、パウロは彼が 伝えた福音の由来についてなんと言っているか?ガラテヤ書1章11-13節

「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。」

 パウロが宣べ伝えた福音は、人間つまりユダヤ教から受けたのではなく、教えられたのでもなく、つまり歴史的・文化的現象ではなく、ただイエス・キリストの啓示によって受けたのであると明言している。パウロは確かに同時代の文化の中にいる人々に理解できるようににコイネーギリシャ語で手紙を書いたけれども、福音は当時の文化や歴史から生じたものではなくイエス・キリストの啓示に由来するもの、つまり「天から降って来たもの」なのである。したがって、聖書を正確に理解したいならば、聖書の神のことばとしての性質と、人の言葉としての性質の両方があることをわきまえなければならない。