苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン6月19日  魂を生き返らせ

詩編23:2,3
文語訳
ヱホバは我をみどりの野にふさせ
いこひの水濱にともなひたまふ
ヱホバはわが霊魂をいかし
名のゆゑをもて我をただしき路にみちびき給ふ

口語訳
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

新改訳
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。

新共同訳
主はわたしを青草の原に休ませ、
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
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 詩篇150篇中、おそらく最も愛されているのがこの23篇だろう。小海の教会では、月に一度、23篇を礼拝のなかでともに朗読するので全部おぼえてしまっている。また、私が洗礼を受けた神戸の改革長老教会では韻律つき詩篇を使用するので、この23篇は曲つきで覚えている。
 さて、翻訳のなかで口語訳に「みぎわ」ということばがある。こういう大和言葉が聖書のなかで大事にされていくことを望みたい。
 「魂を生き返らせ」の「魂」はネフェシュ。創世記1章7節で神が土から造られた人に息を吹き込んだら人はネフェシュ・ハヤーになった。あの一節が意識されているだろうな、と感じる。
 くたびれ果てて土偶のようになってしまっているとき、主が滋養にみちたみことばの糧をいのちの水である御霊とともに用意してくださると、魂は生き返った。・・・そんな経験をこれまで幾度してきたことだろう。主の日が近い。そのようにいのちのみことばを取り次ぐことができますように。また、今夕の家庭集会でも。