苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン2月23日   服従と祝福

申命記28:2,3

あなたがあなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。(新改訳)


もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。(口語訳)


汝もし汝の神ヱホバの言に聽したがふ時はこの諸の福祉汝に臨み汝におよばん 汝は邑の内にても福祉を得田野にても福祉を得ん(文語訳)


あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。(新共同訳)

 訳文のちがいで際立っているのは、新改訳のみが、仮定条件でなく、確定条件として訳している点。だが、前後を見ると、1節で「もし・・・」と仮定条件で訳されていて、その大きな枠の中にあるということで、このように訳されているということであるから、実際には、大きな違いではない。
 教えは主の命令に聴き従うならば祝福があるということである。

 もうひとつの特徴は、「あなた」「汝」という二人称単数の代名詞。十戒でも「あなたは、あなたの神、主のほかに他の神々があってはならない。」と、二人称単数で呼びかける。イスラエルという神の民に呼びかけ、かつ、一人一人に呼びかけていると解すべき。わたしたちは、神の民として神の前に立つのだが、一人一人神の前に立つのである。どちらか一方ではない。使徒信条で「われは天地の造り主・・・」と告白するのも同じ意識。
 ただ、日本語では二人称代名詞というのは、本来どんなに尊敬の意味をこめていても無礼なものとされていく性質がある。たとえば、「御前」が「おまえ」、「貴様」が「きさま」というふうに。だから翻訳も説教もとてもむずかしい。