マルコ7:24−31(説教題を「丁々発止」から改訂しました)
2016年11月6日 苫小牧福音
7:24 イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。
7:25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
7:26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
7:28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。
1.誰にもしられたくないと思われたが
主イエスは弟子たちを連れて、ガリラヤ地方の北方、異邦人の地、海沿いの地域ツロに行かれました。「誰にも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった」とあります。弟子たちにも、ご自分にとっても、少し静まる時が必要であるとお考えになったからです。特に、イエスを王として担ぎ出そうという運動が起こってきた中で、弟子たちは頭を冷やす必要がありました。忙しすぎると、大事なことが見えなくなります。
「おかげさまで忙しくしております」と日本人はよく言います。確かに、不景気で仕事がなくては困るので、こういうことを挨拶にするのですが、これは英語に直訳できないフレーズであると聞いたことがあります。I am busy because of you.と訳すと。「おまえのせいで忙しいのだ」という意味になってしまうそうです。日本人は忙しいことは良いことだという価値観に染まっていますが、あちらはそうではないということなのでしょうね。忙しいという字は心が亡くなると書きます。注意すべきところでしょう。忙しすぎると、何のために自分は生きているのか。何のためのこの活動なのか。といった本質的な問いを発することができなくなってしまいます。「何のために?」というのは目的を確認しているのです。目的を見失って、ただ忙しくしていると、目的地に到着できなくなってしまいます。
それで、イエス様は、お弟子たちとともに、一息つき、神の御前に静まる必要を覚えられたのでした。静まって、神のみこころをもう一度味わいなおして、行く手を見定めるのです。イエス様が見定めている目的地は、もちろんエルサレム城外のゴルゴタの丘です。
2.スロ・フェニキヤの女
しかし、すでに主イエスの評判は、イスラエルの中に留まらず、国境を越えた地域にまでも広がっていました。イエスが来られたという噂はツロの地域にも広がって、一人の女がやってきたのです。どういう女だったのか。
7:25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
7:26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
①彼女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤの生まれであったと、出自が紹介されています。「ギリシャ人」という言い方は、聖書では、文明化された異邦人というほどの意味であって、民族的なギリシャ人という意味ではありません。野蛮人でなく文明化された外国人ということです。スロ・フェニキヤというのは、ガリラヤ地方北方の地中海に面した地域です。フェニキヤ人は、古代の海洋民族で地中海世界をあまねく活躍して、あちらこちらに植民都市を築いていました。あの北アフリカのカルタゴもフェニキヤ人の築いた国でした。
しかし、そういう文明とは裏腹に彼女は異邦人でした。天地万物の創造主なる神を知らず、石や木を刻んだ神々を拝み、悪霊を恐れて生活していました。マタイの平行記事では「カナン人の女が出てきて」と表現されています。このカナン地方の女性という意味でしょう。カナン人というのは、旧約聖書ヨシュア記では滅ぼされるべき罪深い民ということでもありました。カナン風にいえばバアルだのアシュタロテ、ギリシャ風に言えばゼウスやアフロディテの神々を拝むそういう地域に生まれ育った女です。
②ところで、彼女には小さな娘がおりました。その娘が、最近、汚れた霊に取り付かれて苦しんでいたのです。汚れた霊に取り付かれているというのは、彼女の解釈するところによるので、あるいはある種の病気によったのかもしれません。とにかく、どんな神々を拝もうと、拝み屋に頼んでみようと、どんな医者に見てもらおうと、薬草を煎じて飲ませてみようと、どうもに手の施しようがありませんでした。症状は日に日に悪くなる一方でした。
そんなとき、彼女はイエス様の評判を聞いてきたのです。イエス様の評判というのは、いわば良き報せ、福音でした。そのお方は、病と言う病、悪霊という悪霊を、おことば一つで解放してしまうお方である。しかも、他のイスラエルの気難しいラビたちと違って、取税人や遊女にまで優しく神のことばを教えている先生であるというのです。「それならば、異邦人である自分が行っても話しをもきっと聞いてくれるだろう。小さな娘を必ずあわれんでくださるだろう。」彼女は、そういう希望を抱きました。
③そして、イエス様のところに来ると、彼女はイエスの足元にひれ伏しました。そして、「私の娘から悪霊を追い出してください、悪霊を追い出してください、悪霊を追い出してください、悪霊を追い出してください、悪霊を追い出してください」と願い続けたのです。マタイ伝の並行記事では「叫び続けた」と書かれています。
それで、弟子たちは困り果ててしまって主イエスに「あの女を追い返してください」と願ったというのです。弟子たちがイエス様にとりなしてくれるのかと思ったら、「追い返せ」とわざわざ言いに行くのですから、がっかりしてしまいます。
けれども彼女はあきらめることをしないで、「私の娘から悪霊を追い出してください」となおも叫ぶのです。
3 主の冷淡さ
ずっと女を無視していた主イエスは、ようやく口を開きました。「あなたの娘さんから悪霊が出て行きますように」と言ってくださるのでしょうか?
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
「子どもたち」というのは、神の民イスラエル人たちのことです。主イエスはご自分がまずアブラハム以来の神の民イスラエルの救いのために、やってきたのだとおっしゃるのです。まずはアブラハムの子孫であるイスラエルの民に、神の国の到来を告げて、しかる後に、世界のあらゆる民族にという順番でした。彼らを満腹させなければならないというのは、彼らのうちにくまなく福音を、ということです。
それは、まあ理解できます。そのあとの言葉がいけません。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」これはひどいですね。現代日本人の感覚で読むと読み違えるとことです。現代人は、ペットブームで子犬なんていうとかわいいものというふうに思いますが、古代のイスラエル人にとって犬というのは、汚れた動物にすぎなかったのです。旧約聖書全体を通じて最悪の女性イゼベル、アハブ王の妻は最期に高い窓から突き落とされて死にますが、その死体は犬どもに食われてしまいました。犬は、あれほどの汚れた悪女を食っても、腹も壊さないような動物だというイメージでしょう。
また、主イエスはおっしゃいました。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7:6)ここでも主イエスは、カナン人の女、スロフェニキアの異邦人には、聖なるものはふさわしくないとおっしゃるのです。ひどいことをおっしゃいます。テレビやラジオで言えば、「放送禁止用語」でピーッ音が入るところです。もし、私が、18歳のとき初めてに牧師さんに会ったとき、私に対して牧師さんが、「私は教会に集う敬虔な人たちには聖書のことばを話してあげるけれど、犬に話すことはなにもありませんよ。」と言ったら、私はカーッと怒って「牧師さん。あんたは人格破綻者だ。」とでも言って背中を向けて帰ってしまったでしょう。
4.女の驚くべき応答
ところが、あのスロ・フェニキヤの女は驚くべき応答をしました。
7:28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか!!それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。
何しろ、イエス様までびっくりさせたのですから、すごいことです。マタイの平行記事では、「ああ、あなたの信仰はりっぱです!」とまでイエス様はこの女の信仰を賞賛しているのです。これはすごいことです。
「犬にやるパンなどない」というイエス様の耳を疑わせ、こちらのはらわたを煮えくりかえさせるような冷酷なことばにもかかわらず、彼女は「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」と、返事ができたのです。小畑進先生は、神学校のクラスのなかで、この聖書箇所を「実に、禅味がある」と評されました。そして、スロフェニキヤの女を評して、禅の達人であるとおっしました。その意味は、己に対するこだわりからまったく解放されて、自由自在の境地にあるということだとのことです。つまり、「お前はイヌだ」と言われても、「はい。主がわたしを犬だとおっしゃるならば、犬でございます。三遍回って、ワンと申しましょうか。尻尾もふりましょう。」とにっこり笑って言える自由闊達さである、というのです。
なるほどなあ、です。神様の前で、私たちを不自由にしている第一のものはなんでしょう。恐らく、それはプライドです。神様の前でプライドなんて要りません。犬と呼ばれたらワンと、ネコと呼ばれたらニャンと、馬と呼ばれたらヒヒーンと答えればよい。
表面上、どんな怖い顔をなさってにらみつけているとしても、その向こうに、主は優しいお顔をもってあなたを見ていてくださるのです。表面上、冷たい態度を取って、あなたをあしらうことがあっても、主イエスは、実は、もっと深いところであなたを愛してやまないのです。
マルチン・ルターはここでのイエス様の態度とことばを、「神の異なるわざ」というふうに呼びました。宗教改革記念日の翌週ですが、先週に続き少しお話しします。イエス様は、ご自分に近づいてくる者に向かって、時に、恐ろしい顔を向け、あるいは冷淡なそぶりをされるることがあるのです。「君には神の福音はふさわしくない」「犬に投げてやるパンはない」「君には地獄がふさわしいのだ。天国に行きたいなどとはおこがましい。」と。つまり、試練です。
けれども、ルターは強調します。そういうとき、私たちはあくまでも福音のことばにしっかりと立ち止まり続けなければなりません。福音は、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちをもつためである。」と告げているのです。主のあの恐ろしい形相の向こうには、実は、優しい御顔があるのだということをどこまでも信じ続けなければならないのです。
ルターの場合、彼は生真面目な修道士として激しい修行では自分はきよめられえないということを知りました。そこで、聖書の研究をするのです。ローマ書、ガラテヤ書、詩篇、ヘブル書などをとくに学びました。ところがローマ書の第一章の「福音のうちには神の義が啓示されている」というみことばにつまづきました。彼は、義なる神は律法をもって罪人である自分を責めさいなむだけでは満足なさらずに、福音のなかにまで、ご自分の義を啓示なさって、うちひしがれている罪人をさらに苦しめられるのだ。」と思い込んでしまいました。つまり、神の義ということばを、ルターは神が正義である義、また、神がその義をもって罪人をさばく義というふうに思ったのです。・・・しかし、ルターはその自分は滅ぶべき罪人だという認識のどん底で、「神の義」の正しい意味を悟りました。「3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:22−24)ローマ書がいう神の義とは、罪人を罰する神の正義のことではなく、罪人を赦すキリストを意味していることに、ルターは気づいたのでした。
ルターはその経験に基づいて強調するのです。神が恐ろしい形相をもって、あるいは冷淡な態度をもって、あなたに臨んでいるときに、あなたはその怒りの審判者の形相の向こうに、やさしい父の顔を信仰の目をもって見なければなりません。と。
結び
あなたは今、もしかすると、神様のあの優しいお顔が見えないかもしれません。生活の中に起こり来る試みに、神は私をお見捨てになったのか、神は私を怒っておられるのか、という思いに捕らわれているかもしれません。
けれども、そうではありません。それは主の「異なるわざ」です。何があっても、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」という福音のことばをしっかり握って離れないようにしましょう。そして、私たちもイエス様をびっくりさせてあげましょう。神は、実に、そのひとり子を十字架にかけたほどに、決して変わることのない愛をもって、あなたを愛していらっしゃるのです。