数年前から考えている「自然」ということばの問題性について。
「神・人・自然」というふうに、神と世界を把握する表現がある。神は人をご自分の似姿として作り、自然を治めさせることになさった、と言った具合である。
だが、気になるのは「自然」ということばである。読み下せば「おのずからしかり」「あるがまま」ということである。おのずとそのようである、それが自然ということばの意味である。これは、ラテン語でnatura,ギリシャ語physisの訳語なのだが、これらのことばは「本来あるがまま」ということで、まさに「自然」にあたることばである。これは汎神論的な概念、自然宗教的概念である。
神学の歴史で「自然」ということばは、外的自然としての世界と、内的自然としての人間理性の意味で用いられてきた。だが、聖書的観点からいえば、「自然」など存在しない。あるのは神の造られたもの、つまり、被造物である。外的世界も人間理性も被造物である。被造物であるから、神によってその存在を許され、保持されて働いているのである。
用語というのは重要なもので、不適切な用語を用いると、不適切な意味がそこに含まれ不適切な推論が生じ、不適切な神学体系が構築されることになる。
聖書的な神学を志す者は、「神・人・自然」ではなく、「神・人・(人間以外の)被造物」とすべきである。
<追記>
内的自然とされる理性ratioが暴走して、合理主義rationalismという偶像崇拝になって、神学だけでなく、人間を破壊し、被造物世界を破壊してきました。
また、今日、その反動で、人間は外的自然とされる被造物の一部であるという主張がしきりになされるようになり、すべては自然だということで汎神論が流行して、神学も汎神論化しています。
人間理性も、被造物も、神の作品であるという限界付けがされるときに正常な位置を持ちえるのだといえます。