「人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。」 創世記3章20節
女は蛇に誘われ、アダムは妻に誘われて園の中央にあった禁断の木、善悪の知識の木の実を盗んで食べた。とたんに恐ろしいことが起こった。今まで意志もって統御していた肉体がコントロール不能となったのを感じて、彼らは互いに裸を恥じて、慌てて自分の性器をいちじくの葉で覆い隠した。神に反逆したとき、人間の内面において、下位にあった肉体が上位の意志に反逆するようになったのである(アウグスティヌス『神の国』14:17参照)。
日が西の山の端に近づきそよ風の吹くころは、いつも主が庭においでになるときだった。主と顔と顔を合わせて、園であった一日の出来事をご報告するのは、アダムと妻にとって至福のときだったのに、あの木の実を食べたとたん、主の御顔が恐ろしくて木の陰に隠れた。アダムと妻は、霊的に死んでしまったのである。主は蛇に、女に、そして、アダムに肉体の死をも宣告された。「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」(創世記3:19)と。
この呪わしい死をアダムにもたらしたのは誰か?それは蛇、そして、蛇の手下となってアダムを誘惑した女である。この事実から言えば、アダムが女に名をつけるとすれば、「ムート(死)」とでも名付けてよさそうなものである。ところが、彼は女に、「エバ」、生きるものすべての母、と名付けたのだった。なぜか。
前の文脈を振り返ると、ただひとつだけ理由が見つかるだろう。神が蛇に告げたことばである。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)女の子孫が到来し、死をもたらした蛇(サタン)の頭を踏み砕くのだという。これはいのちの君キリストが到来するという約束、「原福音」である。その約束を信じて、アダムは女を、「エバ」、生きるものすべての母」と名付けたのだった。それはアダムの、主の約束に対する信仰告白であった。
アダムにあって、罪が人類に入り、罪によって死が入り、人類を支配した。アダム以来、人は死の恐怖の奴隷である。しかし、アダムは最初に主の約束を、原福音を信じた人でもある。彼は、主の約束への信仰のゆえに、絶望の中に希望を、死のなかにいのちを見出したのである。