苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の御子は  (賛美のことば)

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神の御子は今宵しも ベツレヘムに生まれたもう
いざや友よ、もろともに いそぎ行きて拝まずや。

賎の女をば母として 生まれまししみどりごは、
まことの神、君の君、 いそぎ行きて拝まずや。

「神にさかえあれかし」と 御使いらの声すなり。
地なる人もたたえつつ いそぎ行きて拝まずや。

とこしなえのみことばは  今ぞ人となりたもう。
待ち望みし主の民よ、 おのが幸を祝わずや。<<      
 「いそぎ行きて拝まずや」とは、ベツレヘム郊外の羊飼いたちのクリスマスの夜のことばです。もちろん反語表現になっているわけで、反語表現がかえって強い肯定を意味しています。「ぜひ急いで行って礼拝しよう」です。
 「賎の女」ということばは差別用語、あるいは不快表現ということで問題にもなるのでしょう。けれど、当時のイスラエルの社会においてマリヤは実際、身分の高い女性ではありませんでした。そして、羊飼いたちもまた当時の社会の中ではいやしい職業とされたのが現実であったそうです。羊飼いは、生き物たちの世話をするというその職業内容からして、律法学者たちがいうようには安息日の律法も守ることができない「呪われた」職業でありました。御子イエスが庶民のマリヤの胎に宿り、羊飼いたちにその誕生の告知がなされたことには意味があるわけです。人が不快になる用語は避けるのは知恵ですが、言葉を入れ替えると福音が意味を失うようなことは避けねばならないでしょう。なにか知恵はないでしょうか。
 「声すなり」ということばの意味。「なり」という助動詞は、断定「である」という意味の場合と伝聞「ようだ」という意味のばあいがあります。どう区別するか。紀貫之の『土佐日記』の有名な序に「をとこもすなるにきといふものををんなもしてみむとてするなり」とあります。意味は「男もするという日記というものを女である私もしてみようと思ってするのです」ということです。つまり、「すなり」(終止形+なり)は「するようだ」と伝聞になり、「するなり」(連体形+なり)は「するのだ」と断定です。ですから、第三節の「『神にさかえあれかし』と御使いらの声すなり」というのは、直接見て聞いているのではなくて、「御使いたちの声がしているようだ」とどうも天からの響きに耳をそばだてているという感じです。でも、これは聖書の記述とはちがっています。「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。」とありますから、荒野の羊飼いたちは目の当たりに天使の軍勢の大賛美を聞いたのですから「声するなり」です。「声すなり」と聞いた人々がいたとしたら、遠く町のほうで「あれ、天使の歌声が聞こえるようだねえ」とつぶやいた人々のことでしょう。