苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の配慮の下の旅人

 

         マタイ2:13−23
         2012年8月3日小海主日礼拝

1 預言が成就するために
(1)神の摂理の中で
 マタイによる福音書のイエス様の誕生の前後の記事を読むと、繰り返される表現があります。1章22節
「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」
2章15節、
「これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。」
2章17節
「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。」
2章23節
「これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。」
「主が預言者たちを通して・・・と言われた事が成就するためであった。」です。それは、御子の誕生とそれにともなって起ったことがらの一切が、神の摂理の下にあったということを意味しています。神学用語として摂理と訳されることばprovideneは、むしろ配慮とも配剤とも訳したほうがよいのではないかと私は理解しています。というのは、日本語では「自然の摂理」などというように、「摂理」ということばは非人格的な法則という意味合いで用いられるのですが、本来、聖書的な意味でのprovidenceは人格的な神のわざであるからです。配慮、配剤、按配といったことばのほうが適切です。
 神の摂理というのは、決定論ではありません。決定論というのは、人間を含めてすべては世界の歴史という巨大な機械の歯車ようなもので、人間の自由意志は存在しなというのです。だから、人間にはなんの責任もないのだ、すべてはなるようにしかならないのだ、運命だという考え方です。 聖書がいう神様の摂理というのはそういうものではなくて、神様のご配慮の下に私たちは生かされていて、神様のおことばに私たちがどのように責任をもって応答し、神のご計画の遂行に参与するかということを含んでいるのです。だからこそ、神様は、私たち人間が歴史の中で行うこと罪については神様は責任を問い、また良いわざについては幸いな報いをおあたえになります。ヘロデ大王がなした虐殺ということに神は責任を問われますし、また、懸命に主にしたがったヨセフに対しては、神は幸いな報いを与えてくださるのです。


(2)この世界には不条理があるが
ただ、気になることがあります。ヘロデ大王ベツレヘムとその周辺の2歳以下の子どもたちを虐殺したという出来事もまた預言されていたという記述です。恐ろしいことです。幼子たちの恐怖、親たちの悲しみはどんなものだったでしょうか。ことばがありません。私たちは、こういう不条理な出来事に直面すると、どうしても「なぜ神様はそれをとどめなかったのだろうか」と思ってしまうものです。しかし、この種の「なぜ?」という問に対しては答えがありません。
実は、先日、信州宣教区で信徒役員をしてくださっている方がバイクの事故で天に召されました。私が大学生として土浦めぐみ教会にいた時代、小学校1年生から4年生までいっしょだった人で、思いがけず信州で立派に中学校の教員になった彼に再会したのでした。誠実で子どもたちに慕われている中学校の先生であり、よき家庭人でした。知らせを聞いて呆然としました。つい「神様、なぜ?」と思ってしまい、しばらく悶々として過ごしました。
ですが、お葬式に出かけたとき、二つのことを教わりました。ひとつは牧師が特に遺された夫人と子どもたちのために語られた、「主にすべてを委ねる」ということでした。私たちにはわからないことがある。けれど、悲しみも不安も疑問も、すべてをご存知の主に信頼して委ねることです。もうひとつは、夫人が最後のあいさつで引用されたことばです。「主のなさることは、すべて時にかなって美しい。」ということばでした。悲しみと驚きのなかにあるけれども、このみことばが姉妹に迫って来たそうです。人にはわからないことがある。でも、主は、私たちのために最愛の御子をさえ惜しまなかった主はすべてご存知である。その主に委ねようということです。
聖書は、私たちがつまずきそうになる世界の現実から目をそむけて、美化しないで、ありのままに写し取っていることに心を留めたいと思います。私たちが生きている世界は単純な勧善懲悪の世界ではありません。悪者がはびこり、善人が(厳密な意味ではそんなことはいえませんが、)人が苦しむことも、時にはあるのです。また、人の寿命は神がお定めになることであって、人はそれを伸ばすことも縮めることもできないのです。
ある教会では、主のために命をささげたという意味で、この幼子たちを新約時代における最初の殉教者としているそうです。そういう考えもありえるでしょう。ただはっきりといえることは、この恐るべき罪を犯したのはヘロデであり、人の寿命は主の御手の中にあるものだということです。神様はヘロデの手にかけられたこの子たちの霊を、死も涙も苦しみも叫びもない御国へと引き上げられました。悪魔は、かりに彼らのからだを滅ぼしても、その魂を全能の神の御手から奪うことは決してできません。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

2 ヨセフの聴き従う信仰

 主の使いはヨセフに警告を与えました。
「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」(2:13)
 一刻を争う事態です。主は、ヨセフにエジプトへ逃げよというのです。ガリラヤではヘロデの追っ手がやってくるでしょう。だから、他国に逃げよというのです。しかし、ガリラヤ生まれのヨセフには、エジプトは見たこともない場所です。ことばは通じるのでしょうか?どこに住めるでしょうか?ガリラヤに置いて来た親戚にはどのように連絡しましょうか?仕事はあるでしょうか?・・・心配なことを数え上げればきりがありません。けれども、ヨセフはつべこべ文句は言いません。主の使いの指示に、直ちに従うのです。
「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、 ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(2:14,15)
 エジプトでの暮らしはどんなふうだったのか聖書には記録されていませんから、確かなことはわかりません。小さな子を抱えた夫婦が、ことばも通じず、知り合いもいないままにやって来たエジプトです。けれども、主が行けと言われたエジプトにやって来たのですから、主がすべての必要をご存知です。でしたから、仕事は与えられ、住まいも与えられ、家族の健康も支えられ、すべての必要は満たされたのです。詩篇23篇を思い出します。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
  (中略)
まことに私のいのちの日のかぎり、いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。
私はいつまでも主の家にすまいましょう。」
 主は、主を信頼してそのみことばに従う者をけっしてお見捨てにはなりません。実際、主にしたがうならば、主が生活のすべてについて面倒を見てくださいます。わたしたちの神は生きておられる真実の愛の神ですから。

 さて、エジプトでしばらく過ごすうちに、イスラエルのほうからニュースが入りました。ヘロデ大王が死んだというのです。イスラエルに戻りなさいと御使いは告げ、ヨセフはただちに従います。
 「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。『立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。』そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。」(2:19-21)
聖家族がイスラエルの南部ユダヤ地方までもどってくると、ユダヤ地方はヘロデ大王の死後、息子のヘロデ・アケラオがユダヤを治めていました。父に似た残忍な王です。するとさらに主はヨセフに故郷のガリラヤのナザレに戻るように指示しました。こうして、イエス様は「ナザレのイエス」と呼ばれる人として成長して行くのです。「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった。」(2:23)
 振り返れば、つくづくヨセフの責任はきわめて重大でした。彼の両方の肩に、幼子、世界の救い主の生命がかかっており、したがって世界の人々の救いがかかっていました。ヨセフは前にもお話したようにせりふが一つもありません。ヨセフの信仰は、語るよりも聴く信仰だったことを象徴しているように思えます。みことばに聴き、そして従う信仰です。
 マリヤは神の御霊によってみごもったと知らされたら、それをしっかり信仰をもって受け止めた信仰。出産間近になって、ナザレからエルサレムに来て、今度は行ったこともないエジプトに逃避行。そしてユダヤへ、またガリラヤのナザレへ。わが身に置き換えてみれば。決して容易なことではありません。けれども、ヨセフは従いました。信仰とはみことばに聴いて従うことですから。そして、神さまは聴き従うヨセフと家族を責任をもって守ってくださいました。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます。」

むすび 

 ナザレまで戻って、ヨセフがつくづく振り返ってみれば、「ああナザレでマリヤがみごもってしまったときも、ベツレヘムでマリヤが産気づいたときも、ヘロデがこの子を取り殺そうとした時も、エジプとへと下らねばならなくなったときも、主が守ってくださったではないか。」と御名を讃美しないではいられません。
神の御子を担って、マリヤと幼子を抱えての旅はヨセフにとって、たいへんな重荷であったにちがいありません。何度も申しますように、彼ほど重い責任を担わされた養い親は歴史上にいないでしょう。
けれども、私はこの個所を味わい思いめぐらすうちに、「ああ、イエス様がいっしょにいてくださるのだから、これほど安心な旅はなかったではないか。」ということに気づきました。ヨセフは自分が神の御子を担い、守ってきたと思ってきましたが、実は、御子がヨセフを担ってきたのです。

 私たちも神の摂理、つまり、そのご配慮の下で人生という旅をしている者たちです。私たちの人生には喜ばしいこともあれば恐ろしい出来事もあります。事業の成功もあれば失敗もあります。待ちに待った愛する者の誕生もありますが、愛する者の突然の死もあります。晴れる日もあれば、嵐の日もあります。どんな場合でも、主のご配慮がそこにもあります。ときに、悪魔が私たちを脅かすこともあるかもしれません。私たちには理解できないこともあります。けれども、愛の主のご配慮がそこにもあり、主の力は悪魔にはるかにまさるもののです。 
私たちは、神様からいただいた使命については、忠実に果たしていきたいものです。成り行き任せではなく、主体的に責任をもって。神様のくださった使命であれば、神がこれを全うしてくださいます。ときにその任務が重過ぎると感じることもあります。しかし、大丈夫です。主があなたを担ってくださるからです。

 

Matthew2:13-23
Travelers under God’s Providence

1. to fulfill the prophesies

There are four sentences that contain the same turn of phrase, “All this took place to fulfill what the Lord had said through the prophet”(1:22,2:15,2:17,2:23). What happened when Jesus was born were not accidents but God’s providence.

Providence is not determinism which means that everything in the history was determined before the history began so we do not have free will. So we are not responsible for what we do. The history is a huge machine and we are only the gears of it according to determinism.

But under God’s providence each of us have free will, so we are responsible for what we do in each of our lives. We take part in God’s history. God will punish those who do bad things and will reward those who do good things with good.

2. There is something incomprehensible but…

But there is something we cannot understand in our lives. King Herod killed many innocent children under two years old in Bethlehem. Why God did not stop him? That is an enigma.

We cannot understand everything that happens in our lives and in this history. Especially we cannot understand the spans of persons. Jesus said,” Who of you by worrying can add a single hour to his life?” What we should do is to devote whole of our life to almighty and merciful God who gave us even his only beloved Son.

3. Joseph listened to God’s word and obeyed

There is no word spoken by Joseph in the scriptures. That symbolizes his faith to God. He always listened to God’s words and obeyed. It was not easy for him to go to Egypt where he had no relatives nor friends nor job, but he obeyed and God took care of him and his family.

Joseph was burdened with the Son of God, the messiah. It was too heavy responsibility. But after the travel probably he found that the baby Jesus carried him and took care of him and his wife.

When we walk with the Lord in the light of his Word
What a glory he sheds on our way!
While we do his good will, he abides with us still,
And with all who will trust and obey.
Trust and obey, for there's no other way
to be happy in Jesus but to trust and obey.