苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

☆新改訳聖書訳文メモ集

 福音派で新しい聖書翻訳事業がスタートするそうである。筆者は語学に決して堪能ではないけれど、一応聖書言語を学ぶ機会に恵まれて、牧師として聖書に取り組んで毎週説教準備をしてきて、気になるところがやはりあるものである。それは、きっと筆者だけではないと思う。そういう説教者たちのメモを聖書翻訳者たちに届けることができたら、よりよい翻訳聖書を生み出すためのヒントにはなるのではなかろうか。そんなことを思って、「新改訳聖書」のカテゴリーで、あと数回、聖書翻訳にかんするメモをしておきたいと思っている。カテゴリーボタン「新改訳聖書」をクリックすれば、まとめて見ることができます。

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<もくじ>
文字の向こうに・・・聖書の解釈
聖書本文の文脈
我らに罪を犯す者を我らが赦す「ごとく」(その2)
七つの御霊?・・・黙示1:4
うなぎがこわい?・・・出エジプト32:9
パンはなくとも・・・・・・・・・・・・・・マタイ4:4
省略してほしくなかった代名詞・・・・・・・マタイ28:5、ルカ12:27,28
「だから・・・」の省略はいかがか?・・・・マルコ2:28
「何を知るか」でなく「どのように知るか」・・・1コリント8:2
神であり救い主であるキリスト
理にかなった礼拝・・・・・・・・・・・・・・ローマ12:1
頭の一新によって・・・・・・・・・・・・・・ローマ12:2
まことのいのち ・・・・・・・・・・・・・・マタイ16:26
神のかたちにしたがって・・・・・・・・・・・創世記1:27
文体による誤訳・・・・・・・・・・・・・・・ヨハネ福音書18章
聖書に親しみすぎた翻訳者による誤訳「つぶやく」
ピリピ教団、コリント教団・・・・・・・・・・ピリピ1:1
「あなたがたのうち、どなたが」・・・・・・・・使徒13:15
「仕事のために同行しなかった」・・・・・・・・使徒15:38
マリヤは疑ったのか?・・・・・・・・・・・・・ルカ1:37
神の辞書に不可能という文字はない・・・・・・・ルカ1:37
ヨハネの手紙第一・・・・・・・・・・・・・・・1:1
「父に向かって」・・・・・・・・・・・・・・・1ヨハネ1:2
「望みがあるからです」?・・・・・・・・・・・ピリピ3:8b−9




●文字の向こうに・・・聖書の解釈

聖書解釈にあたっては、聖書に書かれた文字を正確に読むことを目指すのであるが、では、字義を捕らえたらそれで十分かというとそうではない。そのことばを語られる、主ご自身と交流することこそが私にとって聖書解釈の目標である。聖書もまた神と交わるための手段である。手段ではあるが、神ご自身が語られたおことばであるから、それをきわめて大切に扱う。きわめて大切に扱うが、やはり、目的は神と交わることにあることを忘れてはいけない。
 愛の手紙をもらったなら、その手紙を介して私たちは書き手を知ろうとする。書き手を知るために手紙を読む。書き手についてはまったく関心がなく、書かれた文字にのみ関心を寄せて手紙を読むとしたら、それは書き手の意思に反している。同様のことが聖書に関していうことができよう。


●聖書本文の文脈

聖書本文には文脈がある。その本文の前後の文脈、その本文の属する巻全体における文脈、聖書全体に表わされている神の救いの計画全体の中での文脈、そして、その本文の書かれた時代と文化の文脈である。とくに書簡の場合、執筆事情、あて先の状況、記者との関係ということが注意されるべき点である。その書がどのように読まれることを期待してかかれたのかということである。これらの文脈を考慮して、その本文を把握することが必要である。
 聖書本文を読むとき、その本文の字義から、その字義の背後の執筆者の意図に近づく必要がある。さらに、その執筆者を用いた究極的著者である聖霊の意図に迫る。そこには祈りが必要である。



●我らに罪を犯す者を我らが赦す「ごとく」
 

新改訳 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
口語訳 「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」
新共同 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

 多くの教会で主日ごとに声を合わせて祈る「主の祈り」は、文語訳で「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」であるが、新改訳は「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と訳している。大きな違いは、「ごとく」ということばが訳出されていないことである。口語訳、新共同訳では「ように」と訳出している「ごとく」はギリシャ語では「ホース」という比例をあらわすことばである。「我らに罪を犯す者を我らが赦すのに比例して、我らの罪をも赦してください」というわけである。
 新改訳が意図するところは、「人の罪を赦すという功績を根拠として、私の罪を赦してください」という功績主義的義認論として誤解されないようにという配慮であろう。ローマ書などで明確にされている信仰義認の教理がゆるがされないために、「ごとく」「ように」を訳出しなかったのだろう。その意図はわからないではないが、そのために、<神に自分が赦されることと私が隣人を赦すこととの間には密接な関係がある>という主イエスの教えを犠牲にした翻訳になってしまっているのはいただけない。
 釈義と翻訳の原則としては、ローマ書の教理ではなく、まずはマタイ福音書、特に同じ「山上の説教」の中で考えるべきであろう。山上の説教を見渡すと、その中で、<我々の隣人に対する扱いに比例して、我々は神から扱われる>という教えを述べているのは次の三箇所である。
a.主の祈りの直後には「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(6:14,15)とある。「罪」の原語が主の祈りでは「負い目オフェイレーマ」であり、14,15節では「パラプトーマ」であることに注目して云々する説もあるが、ほとんど意味がない。
b.山上の祝福冒頭のイントロダクションにあたるところ。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(5:7)
c.「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(7:1,2)
 これら三箇所は、いずれも読みようによっては、功績主義的義認論ではないかと誤解されそうな個所である。ポイントは、この山上の説教が未信者に対して語られているわけではなく、神を「天にいますわれらの父よ」と呼ぶことのできる神の子どもたちに対して教えられていることをわきまえることである。すでに神の子どもとされている者に対して、天父は<わが子よ。おまえが隣人を量るのに比例して、わたしはおまえを量るよ>とおっしゃっているのである。天父がわが子を訓育する上での取り扱いの公平の原則を述べているのである。あるいは神を愛する愛と隣人愛とは密接不可分な関係にあることを述べているのである。だから我々は、神の子としてもらうために、「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るのではなく、すでに神の子どもとして召された者としてふさわしく、そのように祈るのである。
 二人の孤児を養子として迎えた父親がいたとする。弟が兄の宝物を壊してしまった。弟の過失をゆるそうとしない兄息子にむかって、「おまえが弟を赦さないなら、お父さんもお前が犯した過ちをゆるさないよ。」と諭している文脈である。神との基本的関係の回復における赦しと、神との基本的関係が回復した状態(父子関係)での聖化のプロセスの中での赦しを混同すると、話がわからなくなる。両者を区別して理解する必要がある。
 

●七つの御霊?・・・黙示1:4
 新改訳でこれはどうかな?と思うところとして、黙示録1章4節の「七つの御霊」がある。

新改訳 「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から」

 新改訳はプネウマを文脈に応じて、「霊」と「御霊」と訳し分ける翻訳方針を採っており、御霊と訳すのはそれが文脈上、聖霊を指していると解される場合である。だから、「七つの御霊」というのは聖霊を指していると理解されているわけである。けれど、聖霊が七つという教理は聞いたことがないというわけで、この新改訳に疑問を呈する人がいるのは当然だろう。
 ちなみに他の邦訳聖書を見てみると、文語訳、口語訳、前田訳、新共同訳とも「七つの霊」となっている。新共同訳は聖霊を指す場合には「"霊”」とし、それ以外は単に「霊」としているから、黙示録当該個所は聖霊でないと解釈しているとわかる。文語訳・口語訳では新改訳と同じように文脈上聖霊を指す場合は「御霊」と訳すことにしているから、文語訳では黙示録当該個所の「7つのプネウマ」は聖霊でなくそれ以外の霊であると解していることがわかる。
 新改訳以外で「七つの御霊」と訳す邦訳は、塚本訳で、「七つの霊──(七つにして一つに在し給う御霊)」とある。ただし、「御霊」はギリシャ語本文では複数である。これも意外なことだが、英訳聖書で見ると、あのKJV(欽定訳)がthe seven Spiritsとしている。大文字が用いられているから、聖霊の意味に取っていることがわかる。新改訳に影響が強いと言われるNASBもKJVと同じである。
 ではなぜKJV、NASB、塚本訳、新改訳は、七つのプネウマ(複数)を、あえて聖霊であると理解するのであろうか。それは文脈から推してのことであろう。ここで著者ヨハネは七つの教会のために天からの祝福を祈り求めている。「 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。」天からの祝福を祈るにあたって、神ならぬ「七つの霊」からの祝福を求めるという信仰、いわゆる天使崇敬は新約聖書の他の個所から見出すことはできない。それゆえ、この「七つのプネウマ」は聖霊を意味する特殊な表現であると解したのであろう。このように考えると、筆者の現段階の理解では新改訳の「七つの御霊」という表現にはかなりの当惑をおぼえつつも、正解なのであろうと思う。もちろん新共同訳のようにプネウマをみな「霊」と訳してしまえば、読者の解釈に委ねれば良いことになるので翻訳者は悩む必要もなくなるのであろうが。



●うなぎがこわい?・・・出エジプト32:9
 新改訳聖書にかんして、筆者が「この訳語なんとかしてくれ!」といつも思わせられるのは、「うなじがこわい」という訳語である。「まんじゅうがこわい」にならって、「うなぎがこわい」というのではない。たとえば、出エジプト32:9「主はまた、モーセに仰せられた。『わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。』」ほかにもあちこち出てくる。
 「うなじのこわい民」というのは文語訳聖書における直訳語である。本来、馬やろばが、頸を固くして手綱を持つ御者のいうことを聞かないことを意味するらしい。日常的に馬やろばを見ることさえない日本人にはピンと来ない表現である。口語訳では「かたくなな民」と改めた。ところが、新改訳はなぜかまた文語訳にもどして「うなじがこわい」とした。新共同訳は口語訳と同様「かたくなな民」としている。ただ新共同訳にも「かたくなになる」という意味で、「うなじを固くする」という表現はわずかエレミヤ書(7:26,17:23,19:15)にのみ残されている。
 「『うなじがこわい』なんていう翻訳語は、新改訳を改めるときには撤去してほしいよ。」と、先に召された友人の旧約学者遠藤嘉信牧師に話したことがある。すると、彼は驚いて次のように言った。「えー!『うなじがこわい』というのは普通の日本語じゃないの?ぼくは幼い頃から、母に『嘉信。うなじをこわくしてはいけません』と叱られたものだよ。」これには、こっちがびっくりしてしまった。新改訳の用語が、遠藤家の日本語を形成してしまっていたらしい。まるでルター訳聖書が近代ドイツ語を、KJV欽定聖書が近代英語を形成したみたいな話。だがあちらはキリスト教が国教であった国、こちらはいまだクリスチャン人口1パーセント足らずの宣教地である。「聖書によって次の時代の日本語が作られるのだから、わからん言葉でもいいのだ」という議論は、通用しない。福音派教会内の一部で通じる隠語となるだけだ。わからん言葉で翻訳された聖書は読者を遠ざける宣教の妨げであろう。
 「うなじがこわい」ということばを翻訳するのに適切な現代日本語がないというならば、やむをえないが、「かたくなな」とか「強情な」と訳せば済む話である。聖書翻訳には、当然、聖書言語に堪能な学者が必須であるが、普通の日本語のわかる人の意見をも十分に参考にしていただきたいものである。遠藤牧師は遺された説教集に見るように、見事な日本語の使い手でもあったが、幼い日から聖書を食べるように育ってきたので、「うなじがこわい」を普通の日本語であると勘違いしていた。
 ふつう日本語で「かたくなな」という意味で「こわい(強い)」ということばを使う場合、「あの人は情のこわい人だ」という言い方はしても、「あの人はうなじのこわい人だ」とはいわない。そんなこと言ったら、相手が聞き違えて「じゃあ、彼にはうなぎじゃなくてステーキをご馳走しましょう。」ということになるか、あるいは聞き違えられなくても「ああ、そうなの。気の毒に、彼、こり症の人なんだね。いいマッサージ師を紹介してあげようかしら。」と誤解されるのがオチである。

*追加(3月29日)
 新改訳は日本語としてのなめらかさより原文が透けて見えるようなトランスパレントな訳文を志していることから、「うなじがこわい」にこだわっているのかも知れない。もし、そこまでいうならば、その方針を貫いて、たとえば、ルカ1:78など「これはわれらの神のあわれみに満ちたはらわたによる」とでも訳すべきであろう。実際には「これはわれらの神の深いあわれみによる。」と訳されている。



●パンはなくとも・・・マタイ4:4


 多くの人に親しまれ、かつ誤解されている聖句のひとつにマタイ4章4節がある。

新改訳「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

とあり、文語訳、口語訳、前田訳いずれも似たり寄ったりの翻訳である。多くの人は、この一節を読んで、「人には肉体がある以上、肉体の糧も必要だけれど、それだけではほんとうに生きたということにはならず、魂の糧である神のことばも必要だ。」という誤解をしているし、文脈を見ないでさらっとこの一節だけを読めばそういうふうに解釈するのが常識にかなっていよう。
 けれども、もう二十年以上も前に岩波文庫の『福音書』塚本虎二訳を見て驚いた。「しかし答えられた「“パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる”と(聖書に)書いてある。」と訳している。一見、大胆すぎる訳だが、よくよくマタイ福音書4章の悪魔による荒野の誘惑の問答の文脈をわきまえれば、塚本訳のみ筋が通っている。このとき、悪魔はすきっ腹の主イエスに対して「石をパンに変えてみよ」と誘惑した。「理想だけでは生きられまい。肉体がある以上、パンが必要ではないか」ということである。これに対して、「パンも必要だが、魂の糧の神のことばも必要だ。」などと間抜けな答えをしたら、「な、そうだろう。だから、石をパンに変えろと言っているんだよ。」と悪魔はさらに言い募ったにちがいない。
 しかも、主イエスが引用なさった「人はパンだけで・・・」という申命記8章3節を見てみれば、一層塚本訳の理解の正しさが裏書される。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」つまり、主イエスが悪魔に対して言ったのは「人はパンだけで生きるのではない。パンが無いなら、神が言葉で作ったマナで生きることもできるのだ。」ということである。そういう言葉であったからこそ、悪魔はすごすごと退散したのである。
 要するに、主イエスがおっしゃりたいのは、「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)という趣旨である。乏しい中で主を第一として生きているキリスト者であれば、多かれ少なかれ経験したことがあるはずの真理である。
 文語訳、口語訳、前田訳、新改訳では、、主イエスが悪魔をみごと撃退なさった趣旨が伝わらない。主イエスの趣旨をもっとも明確にした翻訳は、塚本の大胆な訳である。塚本訳は個人訳としての自由さを十分活かして、括弧を多用して思い切った訳ができたのであろう。おそらく新共同訳は、前半を言い切ることによってなんとかして主イエスが言わんとされたところを伝えようとしているように見えなくもない。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」



●省略してほしくなかった代名詞・・・マタイ28:5、ルカ12:27,28

 <日本語では英語とちがって主語である代名詞が省略される場合が多いが、それはギリシャ語でも同じである。ただギリシャ語の場合、代名詞を省略しても動詞の形が主語の人称と数とによって異なっているので、日本語のように主語があいまいになって取り違える心配はない。だからギリシャ語であえて代名詞の主語を記す場合というのは、聖書記者が格別にその主語を強調したい場合にかぎられている。>
 これは神学校のギリシャ語の初等文法で教わったことである。けれども、翻訳においては、自然な日本語に置き換えるために、主語の代名詞を省略してしまうことがしばしばあるし、それはそれでよいと思う。
 だが、新改訳聖書を読んでいると、「この文脈のばあい、代名詞は省略しないで、ぜひ訳出して欲しかったなあ」と思う個所がときどき見受けられる。たとえばマタイ福音書28章5節。主イエス復活の朝、御使いの出現に番兵たちは卒倒してしまった。ところが、そこにやってきたのが主イエスを信じる女たちだった。御使いは言った。「恐れてはいけません。」(新改訳)。しかし、ギリシャ語本文には「あなたがたは(ヒューメイス)」が「恐れてはいけません」ということばの直後にある。福音書記者の意図は、あきらかにイエスに敵対する番兵たちと対比して、「(イエスに味方する)あなたがたは恐れてはいけません」ということであろう。だから訳出して欲しかった。
 口語訳、塚本訳、新共同訳は「あなたがたは」を新改訳と同じように省略し、文語訳、前田訳はそれぞれ「なんぢら」「あなた方は」と訳出している。

文語訳 「御使ひこたへて女たちに言ふ『なんぢら懼るな、我なんぢらが十字架につけられ給ひしイエスを尋ぬるを知る。」
前田訳 「天使は女たちにいった、「あなた方はおそれるな。わたしは知っている、十字架につけられたイエスをあなた方が探していることを。」

 というわけで、新改訳に「あなたがたは」を入れて、読み比べてみよう。新改訳は次のようになっている。

「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。』」

 これに省略した「あなたがたは」を入れてみると次のようになる。

「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『あなたがたは恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。』」

 ついでに、もうすこしエレガントに、そして御使いのことばに少々権威を持たせて私訳してみると・・・

「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『あなたがたは恐れることはない。十字架につけられたイエスをさがしているのはわかっている。』」

 同様の例としては、異邦人と神の子どもが対照されているルカ12章29節の場合。「<あなたがたは>何をたべたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。」あれ、文語訳、口語訳、塚本訳、前田訳、新共同訳はちゃんと「なんぢら」とか「あなたがたも」訳出しているなあ。


 「私の」とか「あなたの」とかいう代名詞の属格も日本語ではうるさい感じがするので、翻訳上省略してしまってよい場合も多いが、文脈上あきらかに強調されているので省略してほしくなかった個所がある。たとえば、ルカ12章の欲深な金持ちの譬えのなかの金持ちのセリフである。

 「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」(17,18節)

というところである。ギリシャ語本文にある「私の」を補うと、次のようになる。

「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。私の作物をたくわえておく場所がない。』として言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、私の穀物や私の財産はみなそこにしまっておこう。」

「私の」をうるさいほど訳出することにより欲深な金持ちの愚かさがよく表現されている。
 これ以上いちいち挙げることはしないけれど、「日本語訳では代名詞は省略する」という原則を機械的に適用するような翻訳は避けて、文脈をわきまえて代名詞を訳出するかしないかをしっかり吟味するということを、委員会の翻訳方針としてほしいと思う。




●「だから・・・」の省略はいかがか?・・・マルコ2:28

(イエスは)また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(新改訳2:27,28)

 黒崎新約註解の六邦訳付きでは、ひとつだけが他の訳とちがっていると、たいへん目立つ。一例はマルコ福音書2章28節である。

文語訳 「然れば人の子は安息日にも主たるなり」
口語訳 「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
塚本訳 「だから人の子(わたし)はまた安息日の主人である。」
新改訳 「人の子は安息日にも主です。」
前田訳 「それゆえ、人の子は安息日の主でもある」と。
新共同 「だから、人の子は安息日の主でもある。」

 新改訳のみが「ホーステ」の訳語として「然れば」「それだから」「だから」「それゆえ」にあたる語を訳出していない。これは意図があってのことだろうか。新改訳が影響を強く受けているといわれるNASB(New American Standard Bible)を含め、代表的英訳聖書を参照しても、それぞれtherefore, so, andなどと訳出されている。なぜ新改訳のみが、「ホーステ」を訳出しなかったのだろう。
 前節2:27を見ると、主イエスは「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」とおっしゃって、続いて、「人の子は安息日にも主です。」と言われている。もし新改訳の訳者が意図的に「ホーステ」の訳出を避けたとするならば、(当然意図的だと思うが)それは、前節とつなげて「だから」などと訳した場合、「人の子」とは、あるリベラルな傾向の人々がそうしたがるように、単に「人間」を指すというふうに解釈される可能性を残すからであろう。ここだけを読めば、「安息日は人間のために設けられたのだから、人間が安息日の主である」つまり、安息日は人間の道具であるという解釈も可能であろう。
 けれども、マルコ福音書全体の中でこの2章28節以外での「人の子」ということばの用法をすべて調べてみると、罪を赦す権威を持つイエスを指す場合(2:10)、イエスの受難と復活の予告(8:31、9:9,12,31,10:33,45、14:21,41)、イエスの栄光・再臨に関する場合(12:26,27,29,14:62)であって、いずれもメシヤとしてのイエスを指していて、一件も一般に人間を指すばあいは存在しない。だとすれば、マルコ2章28節の「人の子」のみを一般に人間を指すという解釈は不適切で、「人の子」という呼称はダニエル書7章13節の終末的なメシヤから来ているというのは確かなことだろう。そんなわけで、誤解を招きそうな「ホーステ」の訳出を避けるべきだというのが新改訳の判断であったのだろうと思われる。そうして、イエス安息日律法の解釈についての律法授与者としての権威をあきらかにすることを意図したのであろう。神学的予見が聖書翻訳に影響を与えた例であると思われる。 
 ただ「ホーステ」の訳出を避けたことは、口語訳や新共同訳と自らを区別して、ことさらに「原典にできるだけ忠実であること」を第一原則とし、「文法的に正確であること」を第二原則として、「原文が透けて見えるような訳文」を目指すという新改訳の翻訳姿勢にふさわしいものであったのかというと、疑問が残る。翻訳の第四原則「主イエス・キリストの占められるべき地位、みことばが主にささげている地位を正しく認めること」にしたがった「ホーステ」の省略なのだということになるだろうが、これはちょっと勇み足だったのではなかろうか。
 新改訳聖書の翻訳原則はその扉に記されている。



●「何を知るか」でなく「どのように知るか」

新改訳聖書のなかで気になっている個所のひとつが、第一コリント8章2節である。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」

なにが気になるかといえば、「知らなければならないほどの『ことも』」と訳されているけれど、ギリシャ語では「知らなければならない『ようには(カソース)』」とあるからである。「知らなければならないほどのこと」といえば、今知っている知識では不足しているから、知識を増やすことが望まれているように誤解されるであろう。しかも、残念なことに、文語訳、口語約、前田訳、新共同訳いずれも、新改訳と同じように「事」「こと」と訳してしまっている。
 ただ塚本訳のみが次のように正確に訳している。

「もしある人が(愛がなくて)何か知っていると思うならば、彼は知らねばならぬようにはまだ知っていないのである。」

 カッコ内の注釈もまことに的確である。蓄えている知識の量が肝心なのではない。愛をもって知るその態度が肝心なのである。直前の節には「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」とあるから、そのつながりから理解すれば、謙遜と愛をもって知るというその「知り方」が大事だとされているのである。



●神であり救い主であるキリスト

Ⅱペテロ1章1節の翻訳について比較してみよう。

文語訳  我らの神および救主イエス・キリスト
口語訳 わたしたちの神と救主イエス・キリスト
塚本訳 我らの神と救い主イエス・キリスト
前田訳 われらの神また救い主イエス・キリスト
新共同 わたしたちの神と救い主イエス・キリスト
新改訳 私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト

 この個所で新改訳聖書のみが、イエス・キリストが神でありかつ救い主であると明示する翻訳をしていて、他の訳はみな神と救い主を分けている。ギリシャ語本文はとなっている。新改訳が、上記のような翻訳をしたのは、グランヴィル・シャープの法則(以下、GS法則)と呼ばれる法則を根拠としている。GS法則とは「冠詞が一連のことばの最初の部分の前にだけ付けられる場合は、おのおのの部分は結合された全体であると見なし、冠詞がおのおのの単語の前に付けられるときは、それぞれは別個のものであると見なす」とJ.ハロルド・グリンリーは定義している。つまり、<冠詞 名詞A kai 冠詞 名詞B kai 冠詞 名詞C>ならば、A、B、Cは別個のものと見なされるが、<冠詞 名詞A kai 名詞B kai 名詞C>と並んだばあい、冠詞はAのみならずB,Cにもかかってワンセットと考えられるわけである。たとえば、エペソ3:18はto platos kai mekos kai hypsos kai bathosとあるが、最初に置かれた冠詞toはplatos(広さ)のみならず、mekos,hypsos,bathosにもかかっているので、「その広さ、長さ、高さ、深さ」と訳される。
 新改訳は、GS法則がⅡペテロ1:1に適用されているとして、「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」と訳したわけだ。
 では、次の個所では、どうか。 
テトス2章13節<tou megalou theou kai soteros hemon>

文語訳 大いなる神、われらの救主イエス・キリスト
口語訳 大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエス
塚本訳 大なる神及びわれらの救い主キリスト・イエス
前田訳 大いなる神でわれらの救い主にいますキリスト・イエス
新共同 偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト
新改訳 大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス

 こうして並べてみると、テトス2:13についても新改訳は「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス」と訳しており、ここでは文語訳、口語訳、前田訳、新共同訳ともに、GS法則を適用した訳をしている。ただ塚本訳のみはGS法則をここに見ていない。このあたりはキリストの神性を明瞭にするという新改訳の面目躍如といったところで、迷いなくGS法則を適用して翻訳がなされている。他方、口語訳、前田訳、新共同訳は行き当たりばったりの観がする。翻訳者たちのキリストの神性に対する理解の迷いがそのようにさせているのか、あるいはGS法則が文脈によって常に有効であるとは見ないということなのか、筆者にはわからない。
 そういえば、グランヴィル・シャープの法則について丁寧に教えてくれたのは、同期の故遠藤嘉信牧師だった。もう二十数年前、彼が米国留学する前のことである。遠藤牧師とは学生時代から知り合いだった。私は聖書研究会で、顧問のセム語学者津村俊夫先生のお世話になっていた。遠藤君は別の学校から聖書神学舎に進んで津村俊夫先生に師事し、私はキリ神に進んだ。思えば、津村先生を真ん中にはさんで、遠藤君と私は出会ったというわけである。また伝道者になって最初の任地が近かったことで、おたがいに若い伝道者としていっそう親しく交わらせていただいた。釈義的なことでわからないことがあると、時々彼に質問をして助けられ、彼は教義学や教理史について私に電話で質問してくることがあった。私には十分に答える能力がなかったけれど。・・・こんなにも早く彼が召されるとは思いも寄らなかった。




●理にかなった礼拝

ローマ12章1節
<新改訳> そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 「霊的な礼拝」とはなんだろう。「霊的な」というから、プニューマティコスという単語が用いられているのかと思ったら、ギリシャ語本文ではロギコス(女性対格でロギケーン)ということばが用いられている。これはロゴスつまり言葉・論理・条理・理性という意味のことばの派生語である。だから、あれこれの註解書には、これはむしろ「理にかなった」と訳すべきだと書かれている。例の黒崎註解も「道理に叶へる」と訳すべきだとしている。それにもかかわらず、文語訳、口語訳、塚本訳、前田訳そろって「霊の」「霊的な」と訳しているのはなぜだろう。日本語訳に影響を与えたと思われる英訳聖書を見てみると、KJV, NKJVはreasonable(理にかなった)となっていて、RSV, NRSV, NASB, NIVはspiritual(霊的な)と訳している。
 これは筆者の推測であるが、近代合理主義の影響でreasonableということばには、無神論的・啓蒙主義的な色がついてしまったために、ロギコスの訳語としてしっくり来なくなってしまったのかもしれない。また啓蒙主義の反動として起こったロマン主義の神学版である自由主義神学の影響もあるかもしれない。それで、reasonableという訳語が避けられるようになったのではないか。日本語でもズバリ「合理的な礼拝です」と直訳したら、顰蹙を買うだろう。しかし、「霊的」ではさっぱり原義が伝わってこない。
 「理にかなった礼拝」とは、いかなる意味で理にかなった礼拝といえるのか。二つの面からそれはいうことができよう。第一は、パウロが11章まで明快に述べてきたように、神の偉大な恵みがキリストにあって注がれたのだから、これに応答するには、献身をもって応答することが理にかなったことである。第二に、しかし、キリストが自ら血を流して供え物となられた以上、もはや罪ゆるされるために血を流す供え物は必要ないので、生きた供え物として自らを主にささげることが理にかなっている。「霊的な礼拝」ではなんだか煙に巻かれたようで、パウロが伝えようとした内容が伝わらない。
 この一節に関しては、新共同訳「あなたがたのなすべき礼拝」が原語の意義を正確に伝えている。

<新共同訳> こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 筆者としては、トランスペアレントな訳を志す新改訳にあっては、さらにはっきりと「理にかなった礼拝」と訳してほしいものだと思う。「霊的な礼拝」では原文がまったく透けて見えない。神への礼拝と礼拝的生活は、カインのささげもの以来、「霊的」と称して主観的な「俺流」「私流」のものに流れがちなものであるから。



●頭の一新によって

ローマ書12章2節
<新改訳>「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 ローマ書は11章までは教理篇、12章以降は実践篇とよく言われる。12章1節で、キリスト者としての実践は、神に自らをささげた礼拝的人生であると言われ、続いて2節で、この世と調子を合わせず、「心を新たに」することが求められる。「変えられよ」と訳すか、「自分を変えよ」と訳すかで議論があるが、筆者が前々から気になっているのは、そこではない。「心」という訳語が適切なのかという問題である。いろいろ邦訳を見ると、前田訳「精神」以外はみな文語訳、塚本訳、新共同訳、そして新改訳ともに「心」という訳語を用いている。永井訳のみが「思」と訳しているのは注目に値する。「汝等の思を化へて新にせよ」とある。ただ永井訳はここに見るように独特の文字使いをしていて、一般の用には供しがたい。
 たしかに日本語では、「頭を一新する」とは言わず、「心を一新する」という言い方をする。けれども、実際の信仰生活において「心を一新する」と言われても、具体的になにをすればよいのかよくわからない。心の一新といえば、日本語の語感としては感情的・気分的な一新を思わせる。
 ところが、この「心」と訳されることばはヌースであって、これはハートでなくマインドを意味している。心というよりも頭である。永井訳の「思」が正解である。だから英訳聖書では、KJV,NKJV,RSV, ASV, NIV, NASBなど軒並みheartではなく、mindという訳語を採用している。邦訳は「頭を一新する」という表現が日本語としてしっくり来ないので、文語訳以来、「心」ということばを採用してきたのだろう。
 だが、この翻訳は日本人キリスト者の信仰理解を主観的・感情的なものにとどめてしまうことの一因になってきたのではなかろうか。日本の教会が教理教育を軽んじる原因にもなったのではなかろうか。もともと日本人の宗教性は、「なにごとにおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」という「絶対依存感情」風のものであるから、なおのことである。
 「頭を一新する」といえば、気分的なことではなく、思想・思考を一新するということであるから、聖書をきちんと学ぶこと、健全な教理をきちんと理解するという具体的実践に結びつく。文脈上も「頭の一新」であるからこそ、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ことになる。
 筆者は信仰の感性的側面を軽んじ知的側面のみを重んじるものではないが、安定感にかんしていえば知性は感性に勝っているのは事実である。たとえば、満腹か空腹かの違いだけで気分は上がり下がりするけれど、空腹であれ満腹であれ知性は「3+4=7」と告げることができる。だから、信仰生活において知性的な面をたいせつにすれば安定感を増すが、もし感性を土台にするならば信仰生活は不安定になる。信仰生活においては教理教育を基盤として、そこに美しい感性の花を咲かせるのが健全であると思う。
 原文が透けて見える翻訳を志す新改訳としては、むしろ「頭を新しくして・・・」とか「思考の一新によって・・・」としてはどうだろうか。




●まことのいのち?
 ちょっと久しぶりに新改訳について気になるところを取り上げたい。マタイ福音書16章26節である。

文語訳> 人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又またその生命の代りに何を與へんや。
口語訳> たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
塚本訳> たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか。
前田訳> 全世界をかち得てもおのがいのちをとられれば何の役に立とう。おのがいのちの代価に何を与えようか。
新共同> 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
新改訳> 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 なぜ、新改訳だけ、「まことのいのち」と訳しているのだろうか?ギリシャ語テキストではプシュケー・アウトゥであるから、「自分のいのち」「おのがいのち」以外には訳しようがないと思われる。神学的予見が入り込んだ訳であろう。どうか新改訳は看板とする日本語としての流麗さでなく「原文が透けて見えるような翻訳」をめざすことを徹して欲しいものである。それが取り柄であるのだから。


●神のかたちにしたがって

創世記1:27
口語訳> 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
新共同訳> 神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
文語訳> 神其像の如くに人を創造りたまへり即ち神の像の如くに之を創造り之を男と女とに創造りたまへり
新改訳> 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 筆者が気になるのは、新改訳第三版は「ご自身のかたちとして」「神のかたちとして」と訳しているところである。この翻訳のばあい、「人は神のかたちである」という理解がされることになる。口語訳・新共同訳も同じことになるだろう。ただ、文語訳のみは「其像の如くに」「神の像の如くに」であるから、「神の像」なるものを範型として人が創造されたと理解される。
 ところで、コロサイ書は先在のキリストのことを、「神のかたち(エイコーン・トウ・セウ)」であると言っている。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)
 コロサイ書の記者が「神のかたち」というとき、著者自身、また当時の読者はなにを意識したであろうか。当時用いられていたギリシャ語訳旧約聖書である七十人訳(セプチュアギンタ)創世記1:27の「神のかたち」は「エイコーン・セウ」であり、「カタ・エイコナ・セウ」つまり「神のかたちにしたがって」となっている。したがって、コロサイ書記者が、キリストを「神のかたち」と呼んだとき、創世記1:27の「神のかたち」を意識していたと考えるのはごく自然であるし、当時の読者も同様であろう。文脈的にも、創世記1章26,27節もコロサイ書1章15節も創造について述べているところであるから。
 以上のようなわけで、創世記1:27について、コロサイ書は、神は人を神のかたちである第二位格(先在のキリスト)にしたがって創造されたと理解していると解される。「神のかたち」は第二位格の別称であり、人は「神のかたち」に似せて創造された被造物なのである。
 であるとすれば、新改訳聖書、新共同訳、口語訳のように、「人は神のかたちである」と解されるような翻訳はいかがなものだろうか。特に、旧新約聖書の啓示の一貫性を信じることを標榜する新改訳聖書においては、そうである。むしろ、「神は人をご自身のかたちにしたがって創造された。神のかたちにしたがって彼を創造し、男と女に彼らを創造された。」と訳すべきであろう。「神のかたちにおいて彼を創造し・・・」でもよかろう。「として」あるいは「に」と訳されているのは、ヘブル語本文では「べ」という前置詞である。
 このように訳した場合、神論と創造論と人間論とキリスト論と救済論にかんする見通しが、次のように、たいへんよくなる。本来、「神のかたち」である先在のキリストに似た者として、人は創造された。先在のキリストは、エデンの園でアダムたち夫婦としたしく交わっておられた。ところが、人は主に反逆し、「神のかたち」からひどく隔たる者となってしまった。やがて、「神のかたち」である先在のキリストは、人を本来の姿つまり「神のかたち」に似た被造物に回復させるために受肉し、贖罪のわざを敢行し、新しい創造のわざをなさったのである。聖化とは要するにキリストに似た者とされることであるが、それは失われた「神のかたち」との類似性の回復である。
 従来の、人が本来、無限な「神のかたち(御子)」の有限な似姿として創造された存在であることを十分に勘案しない、キリストの受肉論は、あまりにも唐突すぎる観がある。つまり神と人との区別性のみ主張して、類似性を無視した見かたでは、御子が人となられたことはまったく唐突でばかげた出来事となってしまう。その「ばかげた」ところに神の破格の愛を見るという人々もあるだろうけれど・・・。
 
ちなみに、新約聖書のなかで、ほかにキリストが神のかたちであるとするのは、Ⅱコリント4:4(エイコーン・トウ・セウ)の一箇所のみである。類似の表現では、「神の御姿モルフェ」(ピリピ2:6)、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(へブル1:3)。ただし、ピリピ2:6は口語訳では「神のかたち」、前田訳では「神の形」、塚本訳では「神の姿」、新共同訳では「神の身分」とそれぞれ訳されている。



●文体による誤訳

一昨晩、近くのK牧師といっしょに新改訳聖書の聖書翻訳について話す機会があった。新しい訳業が始まるということなので、日ごろ説教者として聖書釈義をしてきて、気になるところを出し合おうということで、勉強会を始めたのである。K牧師が出された話題の一つは、ヨハネ福音書18章38節だった。二人で話し合ったところを総合してレポートしたい。

ヨハネ福音書18章37節、38節
37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」

 翻訳の文体を「ですます調」にするか、あるいは「である調」にするか、あるいは「だ調」にするかということは、ほとんどの場合、誤訳とは関係ないと思われるかもしれない。けれども、文脈によっては、必ずしもそうとは言えない。文体にはすでにあるニュアンスやメッセージが含まれているので、文脈によっては「ですます調」を取ることが誤訳となる場合がある。
 上述のヨハネ福音書18章38節は、その典型である。総督ピラトのイエスに対することばを、「真理とはなんですか」と訳したのでは、まるでピラトがイエスに対して謙虚に質問しているかのようである。実際には、この個所は、文脈から明らかなように、真理にまるで無関心な俗物ピラトが、被告イエスをあざ笑うために、吐き捨てるように言ったことばである。とすれば、当然、ここは「真理とはなんだ。」と訳されるべきである。
 なぜ、新改訳ヨハネ福音書の翻訳者は、こんな訳文にしてしまったのだろうか。推測するに、「対話におけるセリフは『ですます調』に訳すこと」という原則を翻訳委員会が立てているらしいので、それを適用せざるをえなかったのではなかろうか?「ですます調」か「である調」かといったことは、単なる形式の問題ではなく、文脈によって内容の問題にかかわってくることをわきまえて、機械的に原則を適用することはやめていただきたいものである。
 ちなみに、口語訳、塚本訳、新共同訳、前田訳はいずれも「真理とはなにか。」と訳している。しかし、それでも訳し足りない。やはり「真理とはなんだ。」と訳したいところである。もちろん聖書は公同礼拝において朗読されるものなので、品位を保つことは必要であると思うが、これなら許容範囲内であろう。
 改めてこの個所の前後を読み返すと、ヨハネ福音書18章28節から19章16節にいたる裁判におけるピラトのことばが「ですます調」であること自体が、非常に不自然なのである。被支配民ユダヤ人に対して相当残忍なこともしてきたローマ総督が、ユダヤ人たちに対して丁重に「ですます調」でやさしく語りかけているように訳されていること自体が、変なのである。その「変」のきわみが38節「真理とはなんですか」である。
 翻訳文体というものは、それぞれの文脈にふさわしいものがあるということを、新しい翻訳の委員会の先生方にわきまえていただきたい。硬直した文体指定は、文脈によっては誤訳をも生み出しかねないのであるから。





●聖書に親しみすぎた翻訳者による誤訳

『なんで神様は人間が小さな声で話していると怒り出すのだろう?』30年ほど前、教会に通い始めて、新改訳聖書を読んで異様な感じを受けた。問題は「つぶやく」という訳語であった。新改訳聖書では、「つぶやく」ということばを「不平を言う、不満を述べる」という意味で用いている。たとえば、出エジプト16章 7-8節。

<新改訳>朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」

 けれども、「つぶやく」という言葉は、国文学者を志していた当時二十歳の筆者にとって、単に「ちいさな声でひとりごとを言う」という以上の意味はなかった。実際、「つぶやく」ということばについて、いくつかの辞書を調べてみると、大辞泉は「小さい声でひとりごとを言う。」とし、、大辞林第二版は「小声でひとりごとを言う。」とし、新選国語辞典第八版は「ぶつぶつ、小声でひとりごとを言う」とし、広辞苑は「ぶつぶつと小声で言う。くどくどとひとりごとを言う。」としている。広辞苑のみ若干「不平」のニュアンスを含む説明をつけているが、「つぶやく」ということばは、普通の日本語においては、単に「小声で独り言を言う」という意味であって、そこに不平・不満は含まれていないし、しかも、「つぶやく」のは独りですることであって集団ですることではない。
 ところが、新改訳では、「つぶやく」は民が集団で神様の扱いについて不平を言うという意味で用いられている。これは、文語訳、口語訳聖書以来の誤った訳語の伝統を踏襲したせいであると思われる。下記をごらんいただきたい。
<文語訳>又朝にいたらば汝等ヱホバの榮光を見ん其はヱホバなんぢらがヱホバに向ひて呟くを聞たまへばなり我等を誰となして汝等は我儕に向ひて呟くや  モーセまた言けるはヱホバ夕には汝等に肉を與へて食はしめ朝にはパンをあたへて飽しめたまはん其はヱホバ己にむかひて汝等が呟くところの怨言を聞給へばなり我儕を誰と爲や汝等の怨言は我等にむかひてするに非ずヱホバにむかひてするなり

<口語訳>「また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」。モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。

 先日、中学生の息子に、「『つぶやく』ということばは単に小声でひとりごとを言うという意味なんだよ」と話したら、「ほんと?僕はてっきり『不平を言う』という意味だと思っていた。」と言った。子どものころから、新改訳聖書に慣れ親しんだ人は、「つぶやく」ということばは不平を言う、文句を言うという意味であると思い込んでしまっているのである。それまで文語訳や口語訳に親しんできた新改訳の聖書翻訳者たちも、恐らくなんの疑いもなく「つぶやく」という訳語を採用したのであろう。このブログの読者で幼い頃から文語訳・口語訳・新改訳に慣れ親しんだ方は、うちの息子と同じような驚きを感じられたのではなかろうか。
 新共同訳で、ようやく「不平を言う」「不平を述べる」とまともな訳語に改められたのは、たいへん喜ばしいことである。


<新共同訳>朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」

 新改訳聖書が本格的に改訂されるそうである。聖書翻訳者はもちろん、聖書言語の専門家である必要があり、幼い頃から聖書に親しんでいる方が多いのだろうが、それとともに普通の正常な日本語センスのある方をアドバイザーとして欲しいと思う。



●ピリピ教団、コリント教団

 ピリピ書1章1節は「 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。」と訳されている。だが、「監督」と訳されていることばエピスコポスは複数形なので、「監督たち」としたほうが適切だと思われる。口語訳と新共同訳は「監督たちと執事たちへ」と訳している。新改訳は、もしかすると、「監督と執事たち」という表現で、「たち」ということばを監督と執事の両方に掛かるものとして読んで欲しいと思ったのかもしれない。「<監督と執事>たち」というふうに。だが、それは無理というものだろう。
 あとでこの個所をもう一度考えてみた。一見すると、どちらでもよいような、細かいことのようであるが、この個所における監督が単数か複数かというのは、教会観にかかわる重要なことである。<監督と執事たち>というと、ピリピ教会には一人の監督と複数の執事たちがいたというイメージを読者に抱かせることになる。さらにひとりの監督が執事たちの上に君臨しつつ、教会全体を治めていたというイメージにつながるかもしれない。だが、<監督たちと執事たち>というと、ピリピでは複数の監督たちによる共同牧会が行なわれていて、執事たちもその指導のもとに奉仕していたというイメージを読者に抱かせることになる。この両者は相当のちがいがある。そして、後者のイメージが正確なイメージであるわけである。
 そもそもこの時代、「ピリピ教会」と言っても、数百名が毎主日、一堂に会して礼拝をささげるということがなされていたわけではない。そういう大集会を開くことのできる礼拝堂は、ずっと後の時代にならないと出現しない。当時の教会では、信者のうちで大きな家に住んでいる者が、自宅を必要に応じて提供して集会を開くということがなされた。だから、ピリピという町の西の集会、東の集会、南の集会、北の集会・・・それぞれに監督がいた。だから監督は複数だった。そうではあったけれど、ピリピの町全体のなかのいくつもの教会が全体としてもひとつの教会であるという意識であった。むかし、宮村武夫先生がおっしゃった表現で言えば、当時のピリピ教会は現代の日本の教会用語でいうならば、ピリピ教団であった。コリント教会はコリント教団であった。
 「監督たちと執事たちへ」という翻訳に直すならば、当時の教会について、正確なイメージを読者に描かせることができるだろう。そして、それは今日の教会のありかたについても有益な示唆を与えるだろう。こんな発見が、いつも励まし合い、励ましあっている近所の牧師との交わりの中で与えられたことも意味のあることである。



●「あなたがたのうちどなたが?」

<新改訳>「律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。『兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。』」(使徒13:15)

 翻訳上の問題を見つけたのは、新改訳の「あなたがたのうちどなたか」という訳文である。口語訳聖書にも「もしあなたがたのうち、どなたか」とあるのを踏襲してしまったのだろう。なぜおかしいと感じるかといえば、文脈上、このように話しかけられたのはバルナバパウロの二人だけだからである。二人だけの人に話をするように奨めるとすれば、「あなたがたのうちどちらか」であろう。新共同訳、前田訳、塚本訳には「あなたがたどなたか」にあたることばはない。ギリシャ語本文ではエン・ヒューミーンであるから、訳出するならば「あなたがたのうちで」ということになる。「兄弟たち。あなたがたのうちで、この人たちに・・・」と訳せばよいところだろう。


使徒15:38「仕事のために同行しなかった」

 新改訳の使徒15:38についてメモをする。青年マルコはバルナバパウロとともに出かけた第一回伝道旅行の途中で伝道の任務をほっぽり出してエルサレムに帰った。第二回伝道旅行に出かけるにあたって、バルナバはそんなマルコをもう一度同行させようとする。しかし、パウロは第二回伝道旅行には連れて行くべきではないと主張する。

新改訳 「しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。」(使徒15:38)
口語訳 「しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。」
塚本訳 「パウロは、(前の旅行の時)パンフリヤから自分たちを離れて、一緒に仕事に行かなかったような者を、連れてゆくべきでないと頑張った。」
前田訳 「しかしパウロは、パンフリアから自分たちを離れて、いっしょに仕事に行かなかったものを連れてゆかないことを主張した。」
新共同訳「しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。」

 おそらく新改訳の翻訳者は、口語訳の文では、「働きを共にする」となっているのを正そうと考えて、「同行し」としたのだろう。しかし、そうすると日本語の語感では、「仕事のために(eis to ergon)」が浮き上がってしまい、マルコは伝道以外に何か別の仕事の都合で、パウロバルナバから離れてエルサレムに帰って行ったという意味に誤解されかねない。ここでいう「仕事」とは新共同訳が言うように「宣教」を意味している。
 塚本訳、前田訳のように、「一緒に仕事に行かなかった」と訳せば、口語訳の問題も新改訳の問題もともに解決することができる。新改訳の訳文は誤訳とは断じられないかもしれないが、誤読を生む可能性の高い訳であると言わざるを得ない。できるだけ、新改訳をそのまま活かすとすれば、「仕事に同行しなかったような者は」と直せばよいだろう。


●マリヤは疑ったのか?

 新改訳聖書アドベントのマリヤへの受胎告知の箇所を見ていたら、これはいかがなものかと思われる翻訳に二点気づいた。第一点は、ルカ1:34「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」である。この翻訳のニュアンスではマリヤは受胎告知を受けて御使いのことばを信じなかったように読める。はたして、そうなのか? 第二点は、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)である。本節には、ギリシャ語では、「ことば(レーマ)」ということばが入っているのに、ここで訳出していないのはどういうわけか?今日はまず一つ目を。
 日本語の新改訳以外の翻訳聖書を見ても、マリヤは受胎告知を受けて、そんなことはありえましょうか?という強い疑い、つまり不信のニュアンスをこめて訳されている。

 新改訳 「どうしてそのようなことになりえましょう。」
 文語訳 「如何にしてこの事あるべき」
 口語訳 「どうして、そんな事があり得ましょうか。」
 塚本訳 「どうしてそんなことがありましょうか。」
 前田訳 「どうしてそんなことがありえましょう」
 新共同訳「どうして、そのようなことがありえましょうか。」

 マリヤは受胎告知を受けて、御使いのことばのいうことなどありえないことだと不信をもって疑ったのか。まず、ギリシャ語本文を見てみよう。ギリシャ語本文では「ポース(how)・エスタイ(will be)・トゥート(this)」となっている。つまり、ポースは「なぜ」ではなくて、「どのように」を意味している。また、「あるべき」「ありえましょうか」といった不可能を意味することばもこのギリシャ語本文にはない。単純に、「どのような方法で、このことがあるのですか?」と質問しているのである。(ちなみに日本の古典文法では助動詞「べし」は打消しと疑問の文脈では「可能」の意味となる。)
 次に、前後の文脈からもマリヤが御使いのことばを「ウソッ、信じられない。ありえない。」という感情をこめて質問したととるのは不合理であると思われる。御使いガブリエルが、ザカリヤに神のことばを告げに行ったとき、ザカリヤはそれを信じなかった。そこで、ガブリエルは次のように告げた。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことば(ロゴイス)を信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」(ルカ1:19,20)
 その6ヵ月後、御使いはマリヤに受胎告知した。受胎したマリヤは、ザカリヤの妻エリサベツのもとに行くと、エリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(1:45)とマリヤを称賛し祝福している。それは、御使いのことばを信じないで口が利けなくされた夫ザカリヤと比較してのことばと読むのが自然である。マリヤもまた御使いガブリエルのことばを信じなかったならば、口が利けなくなってエリサベツを訪れることになったかもしれない。そしたら、マグニフィカート(マリヤの賛歌)も誕生しなかったわけだ。
 というわけで、ルカ1:34は次のように訳すのが正確であると思われる。
そこで、マリヤは御使いに言った。「どのようにして、そのようなことがあるのでしょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」




●神の辞書に不可能という文字はない  ルカ1:37

 クリスマスにちなんで、昨日に引き続き、マリヤへの受胎告知の場面の翻訳上の疑問の二点目である。ルカ1:37節の訳文については四つの邦訳聖書の間にはさして大きな違いはない。

 新改訳(2,3版)「神にとって不可能なことは一つもありません。」
 口語訳 「神には、なんでもできないことはありません」
 前田訳 「神には何ひとつおできでないことはありません」
 新共同訳「神にできないことは何一つない。」

 ただ文語訳聖書のみが、「言(ことば)」という語を次のように訳出している。
   文語訳 「それ神の(凡ての)言には能はぬ所なし」
 調べてみると、この箇所には二通りの有力な写本本文がある。ひとつは「ホティ(なぜなら)ウーク(ない)アデュナテーセイ(できない)パラ・トー・テオー(神にとって)・パーン・レーマ(あらゆることが)」である。これを直訳すれば、「なぜなら、あらゆることが神にとって不可能ではない」となる。ここは「レーマ」を「ことば」ではなく、文語訳以外の邦訳はみな、「事(こと)」と訳している。
 もうひとつの有力本文は「パラ・トー・テオー(神にとって)」が「パラ・トゥ・テウ(神からの・神から出た)」となっている。これを直訳すれば「なぜなら、神から出たあらゆることばには不可能はない。」となる。どうやら文語訳はこちらの本文を採用しているようである。
 「パラ・トー・テオー」、「パラ・トゥ・テウー」いずれの写本も有力なので、あとは文脈上、どちらが適切かという判断になるだろう。ちなみにネトスレ27版は後者を採用している。
 「パラ・トー・テオー」を採用する説に有利なことは、この御使いのことばは、かつて子どもを与えるという神の約束を笑って信じなかったアブラハムの妻サラに対する、御使いの厳しいことばの引用とみなされるのではないかということである。笑ったサラに対して御使いは言った。「主に不可能なことがあろうか・・・」(創世記18:14)新約聖書時代に普及していた旧約聖書七十人訳ギリシャ語本文では「メー・アデュナテイ・パラ・トー・テオー・レーマ」となっているので、たしかにかなり類似しているし、奇跡的懐胎という予型的な意味の文脈からも引用の可能性があろう。
 他方、「パラ・トゥー・テウー」に有利なことはなにか。ルカ1章5節から56節という大きな文脈は、昨日も書いたように、この箇所は神が御使いガブリエルに託したことばに対する信仰・不信仰が主題となっている。<ザカリヤは御使いのことばを信じず懲らしめを受け、マリヤは35−37節の御使いのことばを信じて「どうぞ、あなたのおことばどおり(レーマ・スー)この身になりますように」(38節)と祈り、そしてザカリヤの妻エリサベツにそのことを称賛されている。>この文脈の真ん中で、御使いガブリエルが宣言している一節がルカ1章37節である。だから、御使いガブリエルは、単に一般論として「神は全能である」と言っているのではなくて、「神のことば」を運ぶ御使いとして、「神から出たあらゆることばに不可能なし」と厳かに宣言していると理解するほうが明らかに文脈にかなっている。
 もっと短い文脈、即ち御使いのことば(37節)とマリヤの応答(38節)に着目すれば、御使いのことばのなかの「レーマ」とそれを受けたマリヤのことばの「レーマ」が対応していることに気づく。ところが、「パラ・トー・テオー」を採って「レーマ」を「こと」と訳した場合、この対応が不可能ではないが、ぼんやりとしたものになってしまう。新改訳では次のようになっている。
 「(御使いは答えて言った)神にとって不可能なことは一つもありません。』
   マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
 だが、「パラ・トゥ・テウー」を採れば、次のように、御使いのことばとマリヤのことばががっちりとかみ合う。ツーといえばカーである。
 「(御使いは答えて言った)神から出たおことばに不可能はない。』
  マリヤは言った。『ほんとうに、わたしは主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように。」
 筆者の結論は、ルカ1章37節の御使いのことばは、「神から出たあらゆるおことばには不可能はない」という意味と取るほうが文脈により適合しているということになる。邦訳聖書のなかでは、文語訳に軍配を上げたい。御使いガブリエルのことばは、ナポレオン風に言えば「神の辞書に不可能という文字はない」ということである。



ヨハネの手紙第一 1章1節

 昨年11月下旬から長男と玉川直重さんの独習テキストを用いてコイネーギリシャ語の初等文法を勉強してきて、やっと文法篇が終わって、昨夜から後半のヨハネの手紙第一の講読にはいった。諸訳で次のようになっていて大差ない。

新改訳「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」(Ⅰヨハネ1:1)
文語訳 「太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、」
口語訳 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―」
新共同 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――」
NIV "That which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked at and our hands have touched--this we proclaim concerning the Word of life."

 ところが、玉川さんは、新改訳で「聞いた」「見た」「じっと見」「さわった」という4つの語の時制の違いに着目せよという。新改訳で「聞いた(アケーコアメン)」「見た(ヘオーラカメン)」と訳されているふたつの語の時制は一人称複数現在完了であり、したがって、過去のある時における動作の結果としての現在の状態を表わしているという。だから、玉川さんは「聞いた」「見た」と訳すのではなく、「聞いている」「見ている」と訳すべきだという。1節前半の翻訳は「初めから存在していたところのものであって、私たちが聞いているもの、また、この目で見ているもの」となる。
 だが、後半はちがう。新改訳で「じっと見(エテアサメタ)」「さわった(エプセーラフェーサン)」と訳されているのは、いずれも時制は不定過去である。「不定過去はある動作の過去のある時に起ったことを示す」という。しかも、「エテアサメタ」は特に驚きをもって見たという意味である。それで、1章1節の玉川訳は次のようになる。

「初めから存在していたところのものであって、私たちが聞いているもの、また、この目で見ているもの、かつて私たちが(驚きをもって)見、この手でさわったところのものである、あの命の言について・・・・」

 英訳聖書の中で、これらの時制の違いを正確に訳しているのはASVである。

”That which was from the beginning, that which we have heard, that which we have seen with our eyes, that which we beheld, and our hands handled, concerning theWord of life”

 Youngs literal Versionは驚きをもってというニュアンスも含めて正確に訳している。

”That which was from the beginning, that which we have heard, that which we have seen with our eyes, that which we did behold, and our hands did handle, concerning the Word of the Life --”

 つまり、玉川訳は、後半の「驚きをもって見、この手でさわった」というのは、記者ヨハネが過去に直接経験したことを意味しており、前半の「聞いている」「この目で見ている」のはその過去の出来事に基づいて、今、信仰において経験していることを意味していると理解される。
 ここから後は、筆者の考え。ここから理解すべきは、信仰における今の経験と過去の事実の関係である。イエスの弟子たちが実際に「驚きをもって見て、触った」というのは、過去に時間と空間の中で起った驚くべき事実である。そして、キリストが天に上って行かれた後は、教会は、その過去の出来事に基づく信仰によってキリストを「見ており、聞いている」である。「信仰」を時間と空間の中に起った事実と無関係な神話や物語に解消してしまう人々がいるが、聖書的信仰とはその種のものではない。記者ヨハネは、時間と空間の中に起った驚くべき事件と、その事件にもとづいて今も信仰において経験している事柄、この両面をたいせつなこととして記しているのである。
 主イエスは疑う弟子トマスにおっしゃった。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ福音書20:29)トマスは時間と空間のなかで復活した御子を見た。そこに居合わせていない我々も信仰によって復活の主を見ているのである。



ヨハネの手紙第一 1章2節「父に向かって」

 新改訳聖書第三版の1章2節は次のようになっている。

「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──」

 
 この翻訳でずっと前から違和感を覚えているのは、「御父とともにあって」という表現である。ヨハネ福音書1章1,2節でも、「ことばは神とともにあった」「神とともにおられた」と訳されているのも同じように気になっている。
 なぜなら、この二つの箇所で「ともに」と訳されることばはギリシャ語本文ではprosということばでだからである。通常、prosは「に向かって」という意味とされる。であれば、なぜ「御父(神)に向かっておられた」と訳さないのだろうか?おそらく翻訳の伝統に則っているのではないかと思う。
 そこで翻訳聖書を調べてみると、ウルガタ(ラテン語聖書)がapudという前置詞を用いている。これはwith, by, nearという意味のことばである。そして、権威あるKJV(欽定訳)がwithを採用し、その後に生まれたもろもろの英訳聖書はことごとくwith the Fatherと訳している。あの直訳を旨とするYoung's Literal Bibleでさえ、with the Fatherと訳しているのである。仏訳聖書ならaupre deとかavec、独訳聖書ではbeiとなっていて同じような状況であるから、結局、ウルガタのapudの影響で、翻訳聖書はprosをwith「ともに」と訳しているように思われる。
 息子が、「たぶん使徒信条の影響で、『(御子は)父なる神の右に座したまえり』というイメージが翻訳語に影響して『ともに』となってるのではないか」と言っていた。あるいはそうかもしれない。父の右に座していれば、向かい合うというよりも二人で前を向いているというイメージであるからwithとか「とともに」を用いたのではないかと推測するのである。
 だが筆者はむしろ「父に向かって」と訳すべきであると思う。これは父と御子との、聖霊にある「差し向かいの」人格的な交流を意味する表現だと考えるからである。ヨハネ福音書ヨハネの手紙における三位一体の理解に、このprosの訳語は相当影響する重要語である。新改訳聖書の新版のヨハネ福音書ヨハネの手紙を担当する翻訳者は、ここを「神(御父)に向かって」訳してくださればなあと希望する。




●ピリピ3章8節後半と9節

「3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:8,9新改訳)

 新改訳では9節末尾に「という望みがあるからです」とあるのだが、「望み」にあたることばelpisはギリシャ語本文中にはない。文語訳、口語訳、塚本訳、前田訳、新共同訳にも「望み」はない。「望み」という訳語を入れてしまうと、これが未来を指すという印象が強くなる。これはここにおける文脈上、救いの順序の理解のなかで整合的であろうか。
 「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つ」の末尾の「持つ」は分詞エイコーンである。「持つことによって」として、前の「キリストを持ち、キリストの中にある者と認められる」にかかると理解するのが適切ではないかと思う。
 そういうわけで8節の後半「それは・・・」以下の訳文は、むしろ、下記のようにしたほうがよいと思われる。
 「それは、私には、律法による自分の義でなくキリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて神からの義を持つことによって、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められるためでした。」
 「キリストを得、また、キリストの中にある者と認められた」という根本的なインマヌエルの事実は、神からの贈与としての義によった。この信仰義認によるインマヌエルの事実に支えられて、パウロは未来に「死者からの復活に達」する望みをもちつつ、現在は「またキリストの苦しみにあずかることも知り、キリストの死にあずかる」ことさえも覚悟しつつ、ひたむきに前進してゆくのだと言っていると読みたい。
 神からの贈与としての義を受けたことによって、キリストの中にある者とされたという根本的な恵みの事実をキリスト者としてのスタートとし土台として、未来に復活の希望を抱きつつ、今はキリストの苦しみと死にさえあずかりつつ前進してゆく、これがパウロの言わんとするところではないか。