苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

しっかりと希望を告白する

ヘブル10:19-25


1、大胆にまことの聖所に

 新約の時代の信仰者と旧約の時代の信仰者のちがいはなんでしょうか。それは19節後半に記されている「大胆さ」です。その大胆さは、「まことの聖所に入る」という大胆さです。まことの聖所とは至聖所のことです。旧約時代、神のご臨在が現れたのは、聖所の奥の至聖所でした。そこに入ることが出来たのは、大祭司のみでした。しかも、その大祭司も自分の罪の贖いのために、手落ちなくいけにえをささげて、一年に一度だけ大贖罪の日だけ、至聖所にはいることができるのでした。万が一、大祭司自身の心の思いと言葉と行いの罪をきちんと神の前に処理するいけにえに手違いがあったばあい、大祭司は神に撃たれて死にました。恐るべき任務でした。
 大贖罪の日のことではありませんが、大祭司アロンの二人の息子は、神の前に絶やしてはならない灯火を、(どうやら酔っ払って)間違ったものをささげたために、至聖所と聖所を隔てる幕の下から火が出て彼らは焼かれて死ぬという事件がありました。神の聖なるご臨在に近づくということは実に恐るべきことなのです。
 アダムとエバが罪をおかしてエデンの園から追放されて以来、神との分離は死を意味しています。人は神の臨在のうちに交わることがいのちなのです。ところが、困ったことに人間が罪の問題を処理できぬままに神の聖なる臨在に近づくならば、それは死を意味するのです。ですから、旧約の聖徒たちは、神の臨在にふれると例外なく、ひれ伏し震え上がりました。ヤコブも、モーセも、イザヤもそうです。
 ところが、新約の時代、どうみても今申し上げた偉大な預言者たちにくらべれば、本当にちっぽけな私たちは「大胆に聖所に入ることができる!」とヘブル書の記者はいうのです。

「10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」


 なぜですか?「こういうわけですから」です。どういうわけでしょうか。それは10章12節から14節に言われていることです。つまり、キリストはあのゴルゴタの十字架において、大祭司として、私たちの心の思いと言葉と行動における罪を償うために、ご自身を永遠のいけにえとしてささげてくださったから。そして復活し、天に昇って神の右の座に着いてくださったから、です。
旧約時代、さまざまの動物のいけにえがささげられました。しかし、それらは影にすぎませんでしたから、それらによっては罪がゆるされきよめられた確信はもちえなかったのです。また、かりにアロンという大祭司が自分のいのちをささげたらどうだったでしょうか。人間なのですから、動物よりもよいいけにえになったでしょうか。残念ながら、アロンであっても罪人なのであり、罪から来る報酬は死なのですから、彼の死は彼自身の罪の分で終わりです。しかし、罪のしみひとつない神の御子が人となられて人類の代表としてご自分をいけにえとしてささげられましたからこそ、私たちは、罪をゆるされ、きよめられたのです。だから、大胆に聖所に入ることができます。
 
 しかし、注意してください。新約時代はもう罪が赦されたから、あの聖所と至聖所を隔てた幕は破られて捨てられたから私たちは直接、聖なる神と交わることができるのだというのではないのです。ときどき、そういう誤解をした書物や人がいます。聖書はなんと言っていますか?

10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

 と言っています。エルサレム神殿の聖所と至聖所を隔てた幕を、神が破棄なさったのは、幕が要らなくなったからではなく、人となられた神の御子イエスの肉体が用意されたからにほかなりません。主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。誰でもわたしを通してでなければ、父のみもとに来ることはありません。」とおっしゃったでしょう。イエス様という本物の垂れ幕が出現したので、影としての垂れ幕は無用になったのです。ですから、私たちはあくまでイエス様を通してのみ、聖なる神に近づくことができるのだということを忘れないでください。

 さらに、主イエスは「神の家」つまり教会をつかさどる偉大な祭司です。

10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

復活したイエス様は、いまや天の父なる神の右の座におられて、私たちのために日夜とりなしていてくださいます。聖なる神は私たちの全てをご存知です。その心に思うこと、唇に出すことば、そして、行いのすべてをご存知なのです。神がくださった尊い神の似姿として造られた隣人を妬んだり、そねんだり、非難したり、憎んだり。また、神に背を向けて自分の楽しみを偶像としたり・・・残念なことですが、クリスチャンになった私たちでも、時には、そういう汚れた思いや言葉や行動に走ることがあります。
 しかし、復活された祭司である主イエスは、父の右におられてあなたの弱さに同情してくださって、「私がこの血潮をもって、彼の、彼女の罪の償いをしたのですから、勘弁してやってください。」と、あなたのためにとりなしていてくださいます。出エジプトのとき、イスラエルの民が神に対して不信の罪を犯し、神が「もうこんな民は、滅ぼしてしまおう。」と怒りに燃えておっしゃると、モーセが神のその前に立ちはだかって、文字通り懸命に、いのちがけで立ちはだかってとりなしたでしょう。主イエスは、文字通り命を捨てて私たちのためにとりなしてくださいました。なんとありがたいことでしょうか。


2.神に近づこう、希望を告白しよう

 ①イエス様はあの十字架における血による贖いを完成し、イエス様の裂かれて血潮をながされたからだが私たちが聖なる神に近づく垂れ幕となってくださいました。
②また、イエス様は復活して今も生きておられて私たちのために日夜とりなしていてくださいます。
 「そのようなわけで」です。

10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

 ヘブル書の記者は、真心から神に近づこう、しっかりと希望を告白しようと勧めます。なぜ、こんなふうにまことの聖所に入ろう、真心から神に近づこう、しっかりと希望を告白しよう、と繰り返し強調するのでしょうか。
 それはクリスチャンでありながら、当時も、神に近づくことに躊躇をしている人たち、しっかりと希望を告白できない兄弟姉妹がいたからにほかならないでしょう。「私は神に近づく自信がない」「ぼくは一応クリスチャンだけれど、イエス様が戻ってこられたら、御国に入れていただけるかどうか、よくわからない。」「もしかすると、イエス様が戻ってこられても、君は失格だよ。そんな人間で、よく天国に入れるなんて、あつかましくも考えていたもんだね。とおっしゃるんじゃないかと、気が気ではない。」というような人たちがいたということです。・・・実は、今日でも、そういう「一応クリスチャン」という人がいるでしょう。
 たしかに神の前における、自分の救いの根拠を自分自身に置いているとすれば、救いの確信は決して得ることはできません。私たちの救いの根拠は、人となられ私たちの大祭司となられた神の御子イエス様が私たちの外で成し遂げてくださったみわざにのみあります。また、私たちの真実ではなく、私たちに約束してくださった神の御子イエス様の真実にこそ、私たちの救いの根拠があります。

10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。


3.互いに励まし合って教会の交わりの中に生きよう
 このように、神の御子の十字架における尊いいけにえと流された血潮、そして復活されて父の右の座での大祭司としてのとりなしのゆえに、わたしたちは神の前に罪ゆるされ、そして来るべき最後の審判においては義と宣告されて御国にいれていただけるのです。恵みゆえに救われました。・・・じゃあ、私たちは果報は寝て待て、教会生活をする必要などないのかと言うと正反対です。

10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 キリストのいけにえによって罪赦され、その血潮によって良心がきよめられたのだから、なおのこと、神の家族として、神とキリストの御名がこの世界でもあがめられるために、ともに集まり、お互いに愛と善行をうながし合うのです。
 イエスキリストにある救いを証する、希望を証するということはどのようにしてできるのでしょうか。四つの法則をもって伝道をする、それもいいでしょう。ラジオで福音放送を聞かせたり、通信小海を配ったり、トラクトを配ったり、伝道会をする。それもいいでしょう。・・・あなた自身は、どのようにしてキリストの愛というのを見たでしょう。
 私たちの多くは、教会に来て、そこにある兄弟姉妹の交わりを見て、「ここには何か、この世にはない、清い、そして温かいものがある。これが神の愛というものなのだろうか?」と感じたのではないでしょうか。私はそうだったのです。クリスチャンの知り合いの紹介で19歳の夏の終わりにはじめて牧師さんに会いました。その面談で「神の栄光のために生きる」という「すごいことば」を知りました。でも、まだよくわからなかった。その年のクリスマス青年会に誘われて、小さな教会に行きました。何も派手なプログラムがあったわけではありません。4つの木のベンチに青年たちが長テーブルを囲んで座り、なにか聖書のことばを朗読し、その後、ぶつぶつ祈っていただけです。でも、祈りのなかで私のことも何か祈ってくれました。実に地味なクリスマスでした。何しろクリスマスソングもプレゼント交換もなくて、華やいだものはなにもなかったのです。でも、私はそこになにか清いもの、互いに尊重しあい共感し合い、深い励ましのある、・・・それまでわたしが経験したことのない、この世界にはない交わりがあることを感じました。
 主イエスはおっしゃいました。

「13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 神の愛は、このようにして証しされるのです。あなたがキリストの愛の証人、福音の証人として生きることを望むならば、教会生活を大事にすることが大切です。あなたが、あなたの友や家族を教会に連れてきて、教会にある兄弟姉妹の交わりのなかに連れてくるなら、その私たちがごく当たり前のこととして語り合っているその語らいのなかに、その人のうちに働いて、そこにこの世にはない、天国の希望を、愛を、信仰をあかししてくださるのです。実際、隣の町のT医師は、礼拝の後、教会のみなさんが語らっているその姿、その話の中身を聞くことは、至福のときですとおっしゃっていました。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。


結び
 新約の時代の信者である私たちは大胆に神の懐に飛び込むことができます。それは、旧約の聖徒たちが動物のいけにえをささげつつ待ち望んだけれども、ついに見ることができなかった、本物のいけにえが捧げられたからです。尊い神の御子が人となり、私たちのために血潮を流して罪をゆるしてくださったからです。
 主イエスは復活して、今も日夜私たちのためにとりなしていてくださいます。それゆえ、神の前で、イエス様を信じるあなたの罪が赦されないことはありえないことです。
 そして、その尊い血潮をわたしたちの良心に注ぎ、神を愛すること主にある兄弟姉妹を愛することを人生の基準とするものとしてつくり変えてくださいました。互いに励ましあい、善行を促がし合って、この交わりのうちにあなたの隣人を、あなたの友を、あなたの家族を連れてきて、きよい神の愛をあかししてまいりましょう。
 主の日は近いのです。