「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」ピリピ書2:6−8
「1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」ローマ書1:5
昨日から、霊泉寺温泉での信州夏期宣教講座に来ています。講義と討論のときのあと、居室にもどって布団を敷いてから、先輩の先生方と神学談義になりました。群馬のT師、横浜のT師、東京のY師。横浜のT師が皮切りに「カルヴァンは聖化の神学者です」と話し始められた。
議論の詳細は措いて、多くのプロテスタントでは代償的贖罪のみが語られてきた。つまり、イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったという面のみが語られてきたが、それでは不十分ではないか。それだと、罪赦された者としていかに生きるかがわからない。罪赦されたんだから、あとは自分で頑張れという新しい律法主義に陥ってしまう。そうでなくむしろ、御子の死による罪の赦しとともに、それを包括している御子の御父への積極的従順にこそ目をとめるべきである。御子は、その生涯を通し、そして格別、十字架の死にまでもしたがうその従順を、御父にささげられた。私たちは、御子を信じたとき、御子の御父にささげられた従順という功に与ったのである、と。こういう趣旨のことを横浜のT師は力説された。
私としては、義認と聖化とともに、「子とされる恵み」が肝心でありながら、従来、それが義認論に吸収されてしまったことに問題性を感じていた。御子の積極的服従にわれわれがあずかるという教理はむかしから知っていたけれど、それが子とされる恵みとつながるという大発見に感動して、暗くなっても目がさえてしばらく眠りにつけなかった。