苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

十字架のことばは・・(2)劇的贖罪説と悪魔のほくそ笑み

「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)

1.劇的贖罪説
 キリストの十字架の死は、悪魔の奴隷になっている人間を解放するために、神が悪魔に対して支払った買い取りの代価であるというのが劇的贖罪説である。古典説とも呼ばれる。あるいは、キリストは、悪魔とその手下どもである諸々の悪の力に対する勝利を十字架と復活によって収めたのだと表現することもある。キリストの十字架の死よりも復活が強調され、キリストは勝利者なる王であるということが強調される。古代ギリシャ教父たちの多くが、この説を採り、20世紀初頭には、グスタフ・アウレン(1879−1959AD)が贖罪論の歴史的研究の結果として、再評価し、ルターの贖罪論にはそういう面があるとした。しかし、アウレンのルター理解は残念ながら正確とは言えない。
 近年ではN.T.ライトが、代償的贖罪説(懲罰的代理説)を否定はしないが軽視して、世に対して無責任な彼岸的信仰の傾向があることを批判して、この劇的説を評価している。ライトはパウロは『代償的贖罪死』、すなわち神が誰かの代わりにイエスを罰した、と言っているのではなく、イエスの十字架は、サタンとの戦いにおける勝利であることを強調する。それによって、キリストが神の王国の王となられたことを強調し、王なるキリストの主権下にあるわれわれは王の支配する地において、臣民として責任ある生き方をすることが肝心である。(ライト『シンプリー・ジーザス』『使徒パウロは何を語ったのか』」)。



2.劇的贖罪説の真理契機
 確かに、神がキリストにあってわれわれを救ってくださった結果、われわれは悪魔の圧制・暗闇の支配から解放されたと聖書は教えている。原福音において、「蛇は女の子孫のかかとにかみつくが、頭を踏み砕かれる」(創世記3:15参照)とされていた。この予告は成就して、キリストが来られてご自分の民を悪魔の圧制から解放してくださった。勝利者である王なるキリストということも重要である。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2:1,2)
「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(コロサイ1:13,14)

 劇的説は、堕落後の人は悪魔の圧制下にあるという事実と、キリストはそこから解放してくださり、罪の奴隷から義の奴隷に移されたことを我々に思い出させる(ローマ6章)。合理主義の時代においては悪魔の実在が見失われ、こうした救いの側面は見落とされがちであろう。また、「どうせ罪ゆるされた罪人にすぎないのだから」と罪にもたれこもうとする私たちを奮い立たせるであろう。


3.劇的贖罪説の欠陥と悪魔のほくそ笑み
 しかし、聖書によれば、キリストの十字架の死は、神がサタンに支払った私たちの身代金ではなく、私たちの神の御前における罪の刑罰を代理に背負うことであった。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)

 悪魔に対するキリストの勝利を強調する劇的説は、人間の罪認識を浅薄にさせ悔い改めに到ることを妨げる危険がある。なぜなら、人は罪を犯したとき、「悪魔が私にさせたんです」と責任転嫁すれば悔い改めないことになるである。へびに、そそのかされてアダムと妻は罪を犯し、神から追及を受けたとき、アダムは「あなたが私にくれたこの女が云々」と責任転嫁をし、妻は「へびが云々」と責任転嫁をした。その時、悪魔はほくそ笑んだに違いない。彼らがまんまと悪魔の巧妙な罠にはまったからである。また、悪魔は「悪魔が悪いんです」と言われれば言われるほどほめられたと感じるのである。
 たとい悪魔に誘惑されたにしても、人が神の前に罪を犯すのは、自らの責任において犯したのだと認めなければならない。己の罪を己のものとして認めることが、救いの道への一歩である。「このような罪を犯させた悪魔を私から去らせてください」とどんなに祈っても救いはない。「確かに、このわたしがあなたの前に罪を犯しました。」と認めるときに、キリストの十字架における懲罰代理がわかるのである。 
 劇的贖罪説が、罪は人間の問題でなく悪魔の問題であるとすることは、神の前に罪ある人間が赦される必要感を希薄にさせる。そして、神の前に義と認められ、罪赦されるという意味もよくわからなくなる。罪を犯していることがわからなければ、赦される必要もないのだから当然である。
 たしかに神は、彼らの堕落直後、悪魔に対しては「女のすえによる悪魔に対する勝利」を告げられた(創世記3:15)。だが人が神の前に立ち返るためには、悪魔に責任転嫁することでなく、自らが聖なる神の御怒りの対象だということをまず認識することが必要である。パウロは、生まれながらの人間が罪と罪過の中に死んでおり、サタンの影響下にあり、神の聖なる怒りの対象であると明言している。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1−3)
 自分は愚かにもサタンに欺かれ、自ら罪と罪過の中に死んでおり、神の怒りの対象であることを認識してこそ、キリストの十字架の死と復活の必要性を悟り、神の愛を知り、神との和解を経験できる。
「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)

 結論としては、聖書が両方教えている以上、懲罰代理を中心に据え、劇的贖罪の面が付属的にあることをことを教えることが肝心ということ。