苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン4月21日   星一徹

ヨブ記40:3,4
ヨブ是においてヱホバに答へて曰く 「嗚呼われは賤しき者なり 何となんぢに答へまつらんや 唯手をわが口に當んのみ (文語訳)

そこで、ヨブは主に答えて言った、
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。(口語訳)

ヨブは【主】に答えて言った。
「ああ、私はつまらない者です。
あなたに何と口答えできましょう。
私はただ手を口に当てるばかりです。(新改訳)

ヨブは主に答えて言った。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます」。(新共同訳)

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 翻訳の異同。文語訳、口語訳の「答えましょうか」に対して、新改訳は「口答え」、新共同訳は「反論」として強いニュアンスを出している。ほとんどの英訳はanswer。もとのことば、shubは「返す」「返答する」。新改訳は文脈から、やや強いニュアンスを出して、新共同訳はさらに強く出している。
 三つは「口を手に当てる」とするのに対して、新共同訳のみ「口に手を置く」とするが、sumはどちらでもよい。最初、読みなれた前者のほうがいいような気がして、口に手を置くでは意味不明だなあと思ったのだが、よく考えてみれば、日本で「口に手を当てる」は女性特有のしぐさで、防御的な心理を表すそうである。文化、習慣のちがい。ヨブが口に手を当てたのは、言うまでもなく、神の前に口答えする自分を戒めます、ということだろう。
 ヨブは、苦難の淵から、主なる神に対して信じがたいほどの執拗さをもって嘆きをのべ、議論を挑んできた。挑んできた果てに、主は「さあカバを見よ!」という自慢に始まって創造主としての圧倒的な知恵とパワーをヨブに見せつけた。その結末に、ヨブはその口に手を当てた。
 この粘り強さ、神と格闘するような祈り、これが聖書における生ける神に対する祈りである。その格闘の果てに、口に手を当てて黙るのはよいが、格闘することもなく最初から「みこころのままに」などというのは霊的怠惰であると、フォーサイスが言ったことを思いだした。主イエスも、血の汗を流しながら、二時間、三時間の激しい祈りをあのゲツセマネでささげた。聖書にご自身を現わされた神がスピノザのいうような非人格の大海のようなものではなく、生ける神、生ける人格の神であられるゆえ。神はきっと「わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい。」と思っておられる。妙に従順な子よりも、手ごたえある子を求めておられる。神の人に対する扱いを見ていると、私はつい星一徹を思い出してしまう。

追記
 もう一点書き忘れがあった。それは、新共同訳のみが「わたしは軽々しくものを申しました」と訳し、他の訳は「私は賎しい者です」「つまらない者です」と訳したところである。その原義は、「私は軽かった」ということで、新共同訳はそれを「軽々しくものを申しました」と訳している。ここはなるほど文脈から見てすぐれた訳文であると思われる。ヨブはさまざま語ってきたが、圧倒的な神の力と知恵にふれて、今、黙らねばならなくなった。