苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン3月30日

申命記26章15節

あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。(新改訳)


あなたの聖なるすみかである天からみそなわして、あなたの民イスラエルと、あなたがわれわれに与えられた地とを祝福してください。これはあなたがわれわれの先祖に誓われた乳と蜜の流れる地です。(口語訳)


願くは汝の聖住所なる天より臨み觀汝の民イスラエルと汝の我らに與へし地とに福祉をくだしたまへ是は我がわれらの先祖等に誓ひたまひし乳と蜜との流るる地なり (文語訳)


天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが先祖に誓われたとおりに、わたしたちに授けられた地、乳と蜜の流れる土地を祝福してください。(新共同訳)

 先週半ばから外出しておりました。
 訳語でいろいろあるのは「見おろす」「みそなわす」「臨む」「見下ろす」。シャカフのhiph。「天から」であるから、見下ろすでいいだろう。「みそなわす」は古語で「ご覧になる」という意味の尊敬語。かつて、練馬で一緒にご奉仕させていただいたジェイコブセン宣教師が「神よ。天からわれらをみそなわしたまい・・・」と祈ったことを思い出した。先週の今日、天に召されたという知らせが届いたばかり。
 「天から見下ろす」「天からみそなわす」いずれにしても、神の超越性を表している。聖書にご自分の啓示した神は、遠くかつ近い神である。創世記1章の神は万物の創造主として遠いイメージがあり、創世記2章の「園を歩き回られる神」は近しい。神は、天からバベルの塔を見るために天から下りて来られたとある。人間が工夫した「神」は八百万の神々のように身近で頼りないか、あるいは、反対に絶対的ではるか遠い存在かのどちらかであるが、聖書に啓示された神は遠いお方であり、かつ、近しいお方である。

 「乳と蜜の流れる地」という表現は、繰り返し約束の地カナンがいかに豊かな地であるかを示すものとして聖書に現れる。読みなれてしまって気にも留めなくなっていたが、改めて考えると不思議な表現である。特に日本人にはピンとこない。
 遊牧民の彼らにとって、牛や羊やヤギの乳製品の豊かさ、砂糖のなかった時代の蜂蜜の甘さは憧れだったのだろう。また蜂蜜は人を元気にする力がある。荒野の旅のかなたに、憧れの地があるということだろう。