イザヤ29:15。
ああ。【主】に自分のはかりごとを深く隠す者たち。
彼らはやみの中で事を行い、
そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。
だれが、私たちを知っていよう」と。(新改訳)
わざわいなるかな、
おのが計りごとを主に深く隠す者。
彼らは暗い中でわざを行い、
「だれがわれわれを見るか、
だれがわれわれのことを知るか」と言う。(口語訳)
己がはかりごとをヱホバに深くかくさんとする者はわざはひなるかな 暗中にありて事をおこなひていふ 誰かわれを見んや たれか我をしらんやと (文語訳)
「災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。[誰が我らを見るものか。誰が我らに気づくものか]と。」(新共同訳)
訳語で特徴あるのは、新改訳の「ああ」。他の訳では、「わざわいなるかな」となっている。ヘブル語ではホーイとある。日本語では北島三郎の「ヘイヘイホー」の与作が最後「ホーイ、ホーイ」というふうなのんびりした雰囲気の音であるが、ヘブル語ではまったくちがって、呪いのことば。
70人訳ギリシャ語では、ウーアイとなっていて、これはマタイ伝23章13節以降に記されている、主イエスの「偽善の律法学者、パリサイ人たち」に対する火を噴く非難のことばで繰り返されることば。新改訳第三版では「災いだ」と訳されている。主イエスはイザヤ書をしばしば引用なるが、本日の箇所の直前でも偽善者を責めることばとしてマタイ伝、マルコ伝に引かれている。ホーイ、ウーアイと激しい嘆き、呪いのことば。
このつながりで見ると、「【主】に自分のはかりごとを深く隠し、やみの中で事を行い、誰が私たちを見ていよう、誰が私たちを知っていよう」という思いのありようが、主のいわれる偽善者の本質だということになる。結局、見ておられる主を信じず、ただ人の視線のみ意識して生きているのが偽善者である、と。自らを振り返れば、多分に偽善者であることに気づかされて愕然とする。
主よ。私が、人の目でなく、あなたの目をこそ意識して、生きる者としてください。