苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン3月4日  こんな赤裸々な叫びも

詩篇41:4
「【主】よ、あわれんでください。
私のたましいをいやしてください。
私はあなたに罪を犯したからです。」(新改訳)


「主よ、わたしをあわれみ、
わたしをいやしてください。
わたしはあなたにむかって罪を犯しました」(口語訳)


我いへらくヱホバよわれを憐みわがたましひを醫したまへ われ汝にむかひて罪ををかしたりと(文語訳)



「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」(新共同訳)

 新共同訳のみが「あなたに罪を犯したわたし」という訳をしているが、ヘブル本文は他の三つの邦訳のような構文である。前半、「あわれんでください、いやしてください」と祈願をして、「キー」(because)でつないで、「私は罪を犯したからです、あなたに対して」 と言っている。
 思いがけぬ病にうち倒され床についていると、人は自分の罪を意識することがある。独り、聖なる審判者の前に置かれて罪を意識しない人があろうか。
 だが、続くことばを読むと、祈りは意外な展開をしている。詩人は自分を見舞いに来る人々は嘘を言い、心のうちに悪意を蓄え、自分が二度と立ち上がれないことを望んでいるという。これは事実なのか、それとも病がもたらした疑心暗鬼なのか。
 さらに、自分をいやし立ち上がらせ、彼らに仕返しをさせてください。主に対して誠実を尽くしている自分を支えて、御前に立たせてください、と。そして、主への賛美で結ぶ。あの最初の「私はあなたに罪を犯しました」というへりくだった思いはどこに行ったのだろう。
 改革者は、詩篇は人間の五臓六腑を赤裸々にするものだと言ったが、主の前に謙虚になったり、また人を恐れたり、また希望を抱いたり、また主を見上げて賛美したり・・・そんな詩である。
 驚くべきは、主はこのような祈りをもじっと耳傾けていてくださるという事実である。こんな詩が詩篇に収められていることである。かたちばかりのきれいごとの祈りでなく、魂がうめき叫ぶような祈りを。