苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ことばと音楽  (賛美のことば)

 ある朝、食卓につくと、バケツにごはん、洗面器に味噌汁が入っている。そしたら猛然の食欲がわいてくるという人はまれでしょう。星一徹ならば、ちゃぶ台をひっくり返してしまいます。賛美歌は音楽をともなう祈りです。もし賛美歌を食事にたとえるならば、料理は歌詞であり、食器は楽器です。ミスマッチはいただけません。
 ところが、こと賛美歌に関しては、ときどき乱暴な議論を聞きます。いわく、「音楽がどんなものであるべきかについて聖書は何も教えていないから、なんでもいいのではないか。」 と。たしかにどんな節をつけようと音節数さえ合致すれば言葉は乗るでしょう。でもそれはドングリコロコロのメロディに水戸黄門の主題歌をあわせて歌えるとか、りんごの歌を巨人の星のメロディをつけて歌うようなものです。(ためしに歌ってみてください。)バケツにカレーライスを盛っても食べられるというのと大差ありません。
 賛美歌とはメロディをともなう祈りです。賛美歌ではことばがメロディに優先します。メロディは祈りのことばを盛る器です。メロディは祈りのことばをより深い実感をもって語らせるための道具です。祈りの内容が罪の悔い改めの悲しみを表わしているなら悲しげなメロディ、祈りのことばが偉大な主をたたえるものなら荘重なメロディ、祈りのことばが救われた喜びを歌うものなら軽やかなメロディがふさわしい。メロディが賛美のことばにふさわしいものであるならば、その賛美歌は知性だけでなく感情も意志も一体となって主に捧げることができるでしょう。逆に、歌詞にミスマッチなメロディは、かえって祈りの邪魔をこそすれ益にはなりません。
 ヘビーメタルのリズムでかすかな細い主の御声に耳かたむけるような賛美ができましょうか。詩篇6篇のような叫ぶような祈りに、甘いメロディはふさわしくない。ロマンチックな甘いメロディは、やさしい羊飼いなる主は歌えても、聖なる厳かな神は歌えません。また逆に荘厳なメロディは詩編二十三編には合いません。
 もし天国にちゃぶ台があるなら、天の父がちゃぶ台をひっくりかえしてしまわないように、センスのよい賛美歌が生まれてきますように。

追記
 上の文章を書いた四半世紀前にくらべると、今日ではそういうミスマッチの賛美の歌は減ってきたように感じます。