苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン2015年2月13日  インマヌエルの喜び

1歴代誌16:31

天は喜び、地は、こおどりせよ。
国々の中で言え。【主】は王である。(新改訳)


天は喜び、地はたのしみ、
もろもろの国民の中に言え、「主は王であられる」と。(口語訳)


天はよろこび地はたのしむべしもろもろの國のなかにいへヱホバは統治たまふ(文語訳)


天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ。国々にふれて言え、主こそ王と。(新共同訳)

 ダビデはサウル王の時代、顧みられなくなっていた神の契約の箱をダビデの町へと移したいという志を持った。契約の箱は主がモーセに啓示して造らせた幕屋の至聖所に安置され、中には十戒の板が収められ、その贖罪蓋には神の臨在が現れる場であった。ヨシュアのときには、祭司たちがこの契約の箱をかついでヨルダン川に入ると、ヨルダン川はせき止められて、民は一人残らず渡渉することができた。
 ちなみに、契約の箱は、モーセの時代に「神が我らともにいます」という事実を象徴し、民が主を愛し畏れ敬って生きるためのよすがとして与えられた。荒野で幕屋が完成したときには、栄光の雲が現れたが、この出来事は「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」という受肉の出来事の予型である。「住まわれた(スケネオー)」は幕屋(スケネー)を張られたという意味である。
 話を戻して・・・だが、人間とは愚かな者で、民は主を恐れるのではなく、いつのまにか契約の箱それ自体を魔力がある物のように扱うようになり、戦場にこれを持ち出せば戦は必勝という秘密兵器とされるようになってしまった。それゆえ、祭司エリのときにはペリシテ人たちにこれを奪い取られて彼らは災いに遭ったこともある。
 サウルが王であった時代には、(扱いがむずかしいと思われたからか?)契約の箱は顧みられなくなっていた。ダビデはそのことに心痛めていた。「神われらとともにいます」という約束の表現である箱をないがしろにしていて良いものか、と。一度はウザの割り込みによって失敗しながらも、ようやく、契約の箱をダビデの町に運び込むことができた。ダビデは喜びのあまり民とともに飛び跳ねて踊りまくったことが15章に記されている。その喜びようを理解できずダビデを軽蔑した妻ミカルは、不妊とされたと列王記の並行記事には記されている。
 本日の聖書箇所は、その喜びを歌った歌の一部である。「天は喜び、地は小躍りせよ。国々の中で言え。主は王である。」ダビデの喜びは、契約の箱の本義を思い返せば、「神われらとともにいます」という喜び、インマヌエルの喜びである。救いとは何かといえば、要するに、神が私と共にいてくださる事実である。このことをどうして喜ばずにいられよう。
 主よ、今日もあなたが私とともにいてくださることを喜びます。
 
(付記)
 ソロモンが神殿を築いたとき、契約の箱が至聖所に移された(2歴代5:7)。その後、エルサレム神殿崩壊まで、安置される。586BC神殿崩壊に際して、契約の箱は失われた。だが、神の御子が人として来られた出来事によって、本体が出現した以上、もはや「影」である契約の箱には考古学的意義以上の意味はない(ヘブル10:1)。