2列王22章
ただ神にのみ栄光を(Soli Deo Gloria)
2017年9月 JECA北海道 第2回目メッセージ
宗教改革のスローガンといえば、まずは、ドイツの宗教改革では、「Sola Scriptura、聖書のみ」「Sola Gratia恵みのみ」「Sola Fide信仰のみ」です。スイスの宗教改革は、それに加えて、「Soli Deo Gloria」つまり、「ただ神にのみ栄光を」となります。第二回目のお話は、このことについて、列王記のヨシヤ王による改革。
1.神殿修理を志す
2列王22:2 「彼は【主】の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」
ヨシヤ王は、この2節に要約されるような、たいへん神に忠実な人でした。その生涯の事跡を見るならば、「先祖ダビデ」以上に右にも左にもそれることのなかった、まじめで立派な人物であったことがわかります。彼が王に即位したのは、わずか8歳のときのことでした。
ヨシヤ王が8歳で王となったとはいえ、8歳の子どもに王としての務めが果たせるはずもありませんから、彼が長じるまでは、側近の人々、摂政にあたる者が強力な助言者となって政治を進めたものと思われます。18歳になったヨシヤ自身が実力をもって、王として行った最初のことが次に記されています。
同22:3 「ヨシヤ王の第十八年に、王はメシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを【主】の宮に遣わして言った。『大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、【主】の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、・・・宮の破損の修理をさせなさい。』」
ヨシヤ王が明確に自らの意思で行なおうとしたことの第一は、経済でも軍事でもなく、宮の修理でした。ヨシヤの意識のなかに、真の神への礼拝こそ、この国の心臓部であるという認識があったからでしょう。エルサレム神殿は、長年、補修もされることなく放置され荒れ放題になっていたのです。ヨシヤ王の前は父アモン、アモン王の前は祖父マナセ王であり、いずれも神にそむいた悪い王でした。格別、マナセ王はヤロブアム以来の偶像にまみれた悪しき王でした。
同21:3-6「 彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。彼は、【主】がかつて、「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた【主】の宮に、祭壇を築いたのである。こうして、彼は、【主】の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、【主】の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。云々・・・」
マナセ王の悪業は21章16節に要約されています。
「マナセは、ユダに罪を犯させ、【主】の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」
こんなありさまでしたから、アシェラとかバアルの神殿ばかりが、毒々しい色ににぎにぎしく飾り立てられて栄え、他方、まことの天地万物の創造主の神殿はまるで顧みられないという状態であったのです。このことに若きヨシヤ王は胸をいためました。ヨシヤはまことの神をないがしろにしてはいけないではないかと思いました。この時点において、ヨシヤが偶像をすべて捨てることまで考えていたかどうかは、わかりません。ただ、主の宮が顧みられないでいることに心痛めたので、神殿の修理を思い立ったのです。
しかし、この神殿修理が大きな出来事を引き出すことになります。
2.律法の書の発見
さて、エルサレム神殿を修理するために内部の調査をしていた大祭司ヒルキヤは、神殿で古ぼけた巻物を発見しました。開いてみると、それは律法の書です。今、私たちがいう申命記です。律法の書は大祭司から書記シャファンへ、そして書記シャファンは、王の命令にしたがったことを報告してから、王の前でこの律法の書を読み上げたのです。すると、ヨシヤ王は、衝撃を受けて衣を引き裂いたのです(22:11)。
なぜ、王は衣を引き裂いたのでしょうか。それは律法の書が教えている神の戒めを、今自分が王として治めているユダの国がことごとく破っており、このままでは、早晩、神の裁きがこの国にくだることは火を見るよりも明らかだったからです。申命記5章には十戒が記されています。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。・・・」
律法の書はこのように命じていましたが、エルサレムと南ユダ王国全土は、アシェラ像、バアル像で満ち、高きところで行われる偶像崇拝も民を汚染していました。まことの神はあなどられ、その安息日は軽んじられ、偶像の宮ばかりが栄えていたのです。
そして、律法の書はイスラエルが神に背くならば、神はかならずやこの国に恐ろしい裁きをくだされるという警告をしていたのです。これは28章に詳しく記されています。抜粋してみましょう。
「もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、入るときものろわれ、出て行くときにものろわれる。【主】は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行ったからである。(中略)
かつて【主】があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、【主】は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたが入って行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。【主】は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。【主】は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。」
これが朗読されたのを聞いたヨシヤ王が衣を引き裂いたのは当然でした。「私たちは、主なる神の前にとんでもない犯してしまった、このままでは神の怒りがこの国に下る日は近い。ただちに悔い改めなければならない。」とヨシヤ王は決心したのです。
ヨシヤとしては、とりあえず神殿の修理をしなければ、と思ってはじめたことですが、そこで見出された神のことばに押し出されて、彼は行動を始めるのです。
3.みこころを求めて、長老たちにも律法を周知させる
そこで、ヨシヤ王はこの律法に背いた民に対する主のみこころを求めました。女預言者フルダという人物に、主のみこころを尋ねさせたのです。律法の書が発見され、自分なりの理解では神の怒りはこの国に燃え上がり、このままでは早晩その裁きが下ると思われましたが、やはり適切な専門家に確認してみるべきであると判断したヨシヤでした。
22:12 「王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤに命じて言った。『行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、【主】のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行わなかったため、私たちに向かって燃え上がった【主】の憤りは激しいから。』
彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神、【主】は、こう仰せられます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。
【主】はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。
彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。』
【主】のみこころを求めるために、あなたがたを遣わしたユダの王には、こう言わなければなりません。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神、【主】は、こう仰せられます。
あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、【主】の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。──【主】の御告げです──
それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。」
女預言者フルダから返された主のことばの内容は微妙なものでした。というのは、この罪を悔いたヨシヤ王にかんしては、よいことが告げられましたが、ユダ王国全体については、さばきがないとは云われませんでした。
そこで、ヨシヤ王はユダ王国の民全体に悔い改めをさせるために、民の長老たちを一人残らず集めて、彼らに律法の書を朗読して聴かせることにしたのです。この宗教改革への思いを自分ひとりの中で持っているのではなく、民全体が共有しなければならないと考えたからです。
「すると、王は使者を遣わして、ユダとエルサレムの長老をひとり残らず彼のところに集めた。王は【主】の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、【主】の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。それから、王は柱のわきに立ち、【主】の前に契約を結び、【主】に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。」
5.改革実行
(1)偶像破壊
23:4 それから、王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく【主】の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行った。
23:5 彼はまた、ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で香をたかせた、偶像に仕える祭司たちを、また、バアルや太陽や月や星座や天の万象に香をたく者どもを取り除いた。
23:6 彼は、アシェラ像を【主】の宮から、エルサレムの郊外、キデロン川に運び出し、それをキデロン川で焼いた。彼はそれを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。
23:7 さらに、彼は【主】の宮の中にあった神殿男娼の家をこわした。そこでは、女たちがアシェラ像のための蔽いを織っていたからである。
23:8 彼はユダの町々から祭司たちを全部連れて来て、ゲバからベエル・シェバに至るまでの、祭司たちが香をたいていた高き所を汚し、門にあった高き所をこわした。それは町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門に入る人の左側にあった。
23:9 高き所の祭司たちは、エルサレムの【主】の祭壇に上ることはできなかったが、その同輩たちの間で種を入れないパンを食べた。
23:10 彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。
23:11 ついで、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばの【主】の宮の入口から取り除き、太陽の車を火で焼いた。
23:12 王は、ユダの王たちがアハズの屋上の部屋の上に造った祭壇と、マナセが【主】の宮の二つの庭に造った祭壇を取りこわし、そこから走っていって、そして、その灰をキデロン川に投げ捨てた。
23:13 王は、イスラエルの王ソロモンがシドン人の、忌むべき、アシュタロテ、モアブの、忌むべきケモシュ、アモン人の、忌みきらうべきミルコムのためにエルサレムの東、破壊の山の南に築いた高き所を汚した。
23:14 また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。
23:15 なお彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所もこわした。高き所を焼き、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像を焼いた。
(2)過ぎ越し祭り復興
ヨシヤ王が行った改革の積極面は、過ぎ越しの祭りを律法に書かれているとおりに復興したということです。私たちは驚いてしまうのですが、過越しのいけにえというもっとも中心的ないけにえ、・・・今でいうと聖餐式が、それまでまともに守られたことは、一度もなかったというのです。
23:21 王は民全体に命じて言った。「この契約の書にしるされているとおりに、あなたがたの神、【主】に、過越のいけにえをささげなさい。」
23:22 事実、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代からこのかた、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえがささげられたことはなかった。
23:23 ただ、ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越のいけにえが【主】にささげられただけであった。
ヨシヤ王による宗教改革は、このように、発端は18歳になった王が神殿修理を思い立ったことでした。ところが、そこで律法の書が発見されて、朗読され、王が衣を引き裂いて悔改めたということによって急速に自体は展開し、偶像礼拝の破棄と、まことの過越しの祭りの実施へと進んだのでした。
しかし、残念ながら、ヨシヤ王は志半ばにして戦死してしまうのです。このヨシヤ王の宗教改革と最期を読むとき、私はスイス・チューリッヒの宗教改革者フルドライヒ・ツヴィングリを思い出すのです。
宗教改革といえば、ドイツのルターが1517年に始めたことが特に有名ですが、ルターと同世代に神様はフルドライヒ・ツヴィングリという人物を、スイス・チューリッヒに起こされました。彼のことを紹介します。その宗教改革は、「聖書のみ」「信仰のみ」であるという根本原理はルターと同じです。当時の教会は聖書から離れて、迷信化したもろもろの儀式を行ない、その儀式に参与することによって救われると教えていました。特に免償状を買ったら、その献金がチャリーンと献金箱に落ちたとき、煉獄のたましいが天国に行くなどと教えていました。こんなことは聖書のどこにも書かれていません。
こうしたことに、ツヴィングリは反対し、教会は聖書のみに立つべきであり、聖書は人は信仰のみによってこそ救われると教えていることを告げました。ただ、彼の場合、教会改革とともに熱心に偶像を排除し社会改革にも積極的に取り組もうとした点に特徴がありました。ルターは聖書が禁じていないならば、教会のもろもろの習慣はまあよいとしていたのですが、ツヴィングリはこと礼拝にかんしては聖書が定めていることのみをすべきだという原理に立ちました。そして、同時にチューリッヒ市当局にも積極的に働きかけて社会改革を進めたのです。同じ路線では彼を先駆者として、後にカルヴァンが起こされます。この宗教改革の流れを改革派といいます。
ツヴィングリは、1506年グラールスの司祭となり、従軍司祭としてイタリア戦争の悲惨を経験します。1513年から人文主義運動に参加し、ギリシャ語・ヘブル語で聖書を研究し説教をすることを通して聖書中心的な思想を固めていくのです。人文主義は、ルネサンスにおける古典原典に立ち返れという学問的運動です。当時のヨーロッパ世界では学問はラテン語が用いられておりました。聖書もラテン語訳聖書が公認聖書とされて、その翻訳を根拠として教会は神のことばから離れたことを教える向きもありました。そこで、ツヴィングリは聖書をギリシャ語・ヘブル語本文に立ち返って、正確に読み取って、説教することを始めたのです。マタイ福音書1章1節からの連続講解説教です。そうして、聖書の示す道からはなはだしく外れてしまったローマ教会を批判するようになってゆきますが、なお彼はその改革に立つほどの覚悟はありませんでした。
ところが、1519年、転機が訪れます。チューリヒの司祭となっていた一五一九年にペストにかかって死線をさまよう経験をしたのです。このとき、次のような詩を書いています。
ペストの詩[ 原典宗教改革史pp235−236](病の始まりのとき)
助けたまえ、主なる神よ、助けたまえ、この苦しみから。
死は間近に迫っております。
私のそばにお留まりください、基督さま、あなたは死を克服されたのですから。
(中略)
けれども、あなたの命令で人生の最盛期に、死がやってくるのであれば、
ただただそれに従います。あなたの望まれるようになさってください、委細構わずに。
私はあなたの器であり、作るも壊すも自由になさってください。
私の魂をこの世界から奪うのであれば、世界がこれ以上悪くならないように、
他の人々の敬虔で明るい生活が汚されることがないようになさってください。
ペストは不治の病でした。そのペストが癒されたとき、ツヴィングリは神が自分を教会改革に召しておられることを確信し、立ち上がりました。ツヴィングリは勇気を出して、聖書に書かれていないローマ教会の迷信的なプログラムや偶像礼拝を徹底的に排除することを始めました。ツヴィングリによる改革は修道院解散、ミサの廃止とプロテスタント化、教会堂内の聖像・聖画の追放、さらに貧民救済・教育機関の設置など実際的なことに及び、チューリヒ市の政治的問題にも積極的に発言しました。ツヴィングリにとって、信仰生活と政治や日常生活は不可分のものであり、生活の全領域を神の主権の下に置こうとしたのです。Soli DEo Gloriaです。
ツヴィングリのなかで、政治と教会の区別は截然とはしていませんでした。カトリック勢力に立つ町々と、プロテスタント主義に立つ町々が戦争となりました。牧師がその戦いに自ら立つことは珍しいことでしたが、ツヴィングリは自ら剣を取って立ち、乱戦のうちに戦死したのです。
結び
ツヴィングリの宗教改革は、古代ユダ王国のヨシヤ王による改革を彷彿とさせるものがあります。偶像の徹底排除と社会改革への取り組みがその特徴でした。ですが、反面、教会と政治の区別というものが明瞭ではなかったというのが、彼の改革の問題点であると一般に指摘されます。ツヴィングリは、志半ばにして、自ら剣を取って戦争に加わり、戦死してしまいました。そんなところまで、志半ばに戦地にたおれたヨシヤと重なるところがあるのです。
彼の働きはこのあとブリンガーという改革者に引き継がれ、さらにジュネーブで改革をしていたカルヴァンたちの働きと合流していくことになります。このスイスの宗教改革運動は、改革派と呼ばれることになります。その理念は、「改革された教会は常に改革されなければならない (Ecclesia reformata semper reformanda.)」です。
宗教改革とて人間のしたことですからもちろん欠けもあるのです。しかし、過去の先達を批判するのはたやすいことです。私たちとしては自分たちの教会の、また日常生活のなかから偶像を排除し、生活の全領域で聖書にしたがって、神の栄光をあらわすという点、このスイスの宗教改革者に学びたいと思うのです。スイス宗教改革のスローガンは、「聖書のみ」「信仰のみ」に加えて「ただ神にのみ栄光を」「改革された教会は常に改革されなければならない」です。