2サムエル7:18
「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。」(新改訳)
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。」(口語訳)
「主ヱホバよ我は誰わが家は何なればか爾此まで我を導きたまひしや 」(文語訳)
「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。」(新共同訳)
ダビデが周囲を従えて、王宮を造って平穏のうちに暮らせるようになったとき、自分が総檜の屋敷に住んでいるのに、自分を導き祝福してくださった主の住まいが荒野以来の天幕であることに申し訳なさを感じて、神殿造営を思いついた。だが、主はこれを断られた。
そして、彼の子孫が神殿を築き王位を確立するという、「ダビデ契約」をお与えになった。この契約はとりあえず息子ソロモンによって、本格的にはキリストの受肉・受難・復活・昇天着座によって成就することになる。もちろん当のダビデには、そこまで見通すことはできなかったであろう。
それにしても、と振り返ってダビデは思う。一介の羊飼いだった自分が、いまや王とされているこの不思議。「何故わたしを、わたしの家などを」と確かに思わざるをえないだろう。ダビデはまさに旧約版日吉丸であった。要は、神の選びであり、神の恵みの結果であった。
私はダビデとは比べようもない小さな者だけれど、それでも「生きる目的はなにか、生きていてよいのか」と灰色の闇のなかにいた若い日の自分を思い返せば、あの日、主と出会って生きる目的を得、愛の欠けた者が愛することを教えられ、主に伝道者として召され、この地に来て福音のあかしに生きることを許されて来たことの恵みを思わないではいられない。そして、ダビデが主のために神殿をと思ったように、もう一仕事、主に与えられた任務のなかでまだ果たしえていないことがあるならば、主が迎えに来られるまでにそれを成さねば、と考える。
ちなみに、これが私への召しのことば。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19,20)