苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨシヤの改革

23:21そして王はすべての民に命じて、「あなたがたはこの契約の書にしるされているように、あなたがたの神、主に過越の祭を執り行いなさい」と言った。 23:22さばきづかさがイスラエルをさばいた日からこのかた、またイスラエルの王たちとユダの王たちの世にも、このような過越の祭を執り行ったことはなかったが、 23:23ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越の祭を主に執り行ったのである。(列王記下)


 敬虔な王ヒゼキヤの後に、マナセ、アモンという甚だしく道を外れた王が続くが、その後にヨシヤが8歳で王座に着く。久々に「ヨシヤは主の目にかなう事を行い、先祖ダビデの道に歩んで右にも左にも曲らなかった。」と評される王である。
 ヨシヤは治世18年目に荒れていた神殿の修復を図るが、そのなかで律法の書が発見された。そこに記されているところに照らすと、北イスラエル王国が亡びた理由は、その国が主なる神をないがしろにし、偶像崇拝にふけっていたことが明らかだった。そして、今、このユダ王国を見回すならば、ここにも主のさばきが迫っていることは火を見るより明らかだった。そこで、彼は徹底的に偶像崇拝を南ユダ王国から排除して、真の神に立ち返ろうとする。ヨシヤの宗教改革と呼ぶ人もある事件である。
 改めて驚かされるのは、冒頭に掲げたことばである。過ぎ越しの祭りが、さばきつかさ(士師)の時代から王国時代にいたるまで一度も実行されたことがなかったという。ダビデの時代、ソロモンの時代も、である。
 律法の書が読まれることがなくても、それなりに宗教行事は営まれて伝統となり、そのうち異教の神々への祭儀の工夫も加えて、ますます荘厳さを増して、そして誰も疑うこともなかったのだろう。そのうち律法がどこに行ってしまったかわからなくなってしまうという体たらく。だが、みことばに照らさなければ、ほんとうの礼拝が何であるのかということは、人間の理性には決してわからない。
 現代は地球的危機が迫り、さまざまな領域で「共生」の必要が叫ばれる時代であり、それはそれで意義深いことではある。けれども、真の神礼拝については、あくまでもみことばに立つのだということを確認したい。

 キュウリのぬか漬けがおいしくなってきました。でも、年齢も年齢。塩分をひかえる要に、ナースの友人から忠告されました。