苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

暗闇の中に、光の中に

 神殿奉献のとき、ソロモン王は次のように言った。

「【主】は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
 そこでこの私が
  あなたのお治めになる宮を建てました。
 あなたがとこしえにお住みになる所を。」(第二歴代誌)

 主は暗闇の中に住むと仰せられたというのは、モーセが経験したところの記録によっているのであろうか。次のようにある。

そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。(出エジプト20:21)

 そこで、ソロモンは至聖所は明り取りの窓もない真っ暗な場として造営したと言っているのだろう。
 ところが、新約聖書には次のようにも書かれている。

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。(第一テモテ6:15b,16)

 暗闇の中に住まわれる主は、光の中に住まわれる主であられる。これはどういうことなのだろうか。この光は幕屋奉献、神殿奉献のとき、至聖所に現われた主の栄光を意味しているようにも思える。

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34,35)

ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、【主】の栄光がこの宮に満ちた。祭司たちは【主】の宮に入ることができなかった。【主】の栄光が【主】の宮に満ちたからである。(第二歴代誌7:1,2)

 暗闇のなかに住み、光の中に住まわれる不思議なお方。