ローズンゲン7月7日(火)
(列王上8:29)
夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、「わたしの名をとどめる」と仰せになった所です。
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渋谷の事務所で目覚める。
ソロモン王が神殿奉献式でささげた祈り。ソロモンは、神殿を建てながらも、天地万物の創造主にして支配者なる偉大なお方が、人が手でつくった神殿になど住まわれるはずもないことをわきまえている。天の天も、神をいれるには足りない。
それでも、時と場所のなかでしか生きることのできない有限な人間、神の民のために、神殿というところで、神はその民を会うというかたちをとってくださった。まずは荒野でのモーセの幕屋にそして神殿に、主はその名をとどめてくださった。
だが、神の御子が来られ、ご自分のからだが神殿であるとされた。そして、エルサレムでもどこか特定の「聖地」でなく、キリストにあって、私たちが神と出会うことが許される時代となった。父のふところにおられるひとり子の神が、人となって私たちの間に幕屋を張られたので、私たちはこのお方にあって、天の父とお会いすることができるようになった。
また、御子が私たちのうちに送ってくださった御霊によって、「あなたがたがは聖霊の宮」であるとおおせになった。新約聖書パウロ書簡、ペテロ書簡で、「神殿」とか「宮」と呼ばれるのは、信徒ひとりひとりのからだをさしたり、礼拝共同体としての教会をさしているのであって、建物をさすことはない。主が小さな私たちに、ご自身の名をとどめてくださるという幸い。
神殿は神と神の民が出会う場であり、新約の時代、キリストのからだが神殿であり、キリストにむすばれている者として信徒のからだが、そして礼拝共同体が神殿である。ここで、神は人と出会われる。
もう40年近く前、須磨の飛松中学校の前にあった教会をはじめて訪ねた。青年のクリスマス会だということで。派手なこともなにもなかったが、詩篇歌を歌い、聖書のことばが開かれた。そして、青年たちがお祈りをするとき、私は神とであった。