黙示録22章1-5節
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」
1 いのちの水の川、いのちの木
今朝開かれたみことばは、神の御使いがヨハネに与えた啓示の記録です。黙示録では、世界の歴史が終わりのときにいったいどのようなことが起こるのかということが記されていますが、この最終章にいたって、御使いは主イエスが再臨なさったときに実現される新しい天と地の幻を見せてくださいました。その新しい天地の中心にある都のありさまが、ここに描写されています。
ヨハネは「水晶のように光るいのちの水の川」を見せました。水晶のように透き通って光っているという描写は、その水の純粋性、きよさというものを表現しています。
死にかかわる川といえば、日本人の多くが連想するのは、きっと三途の川でしょう。三途の川というのは、三本道の川という意味なのだそうです。第一の道は、この世で徳を積み悟りを開いたごくごくわずかの人々が彼岸に渡るための立派な橋なのだそうです。第二の道は、それなりに修行を積んだのだけれど徳の足りない人の場合は舟に乗ってわたるということです。そして、第三は、ごく普通の人々の場合は、滑りやすく足元の悪い三途の川をザブザブ歩いて渉らねばならないのだそうです。が、向こう岸はいずれにせよ、冥土です。冥土の「冥」は、光がなく暗くて見えないという意味ですから、冥土とは暗い光のない世界です。日本人の多くが教えられてきた三途の川は院隠滅滅たる風景です。
これに対して聖書に啓示された、死後の世界とそこに流れる「いのちの水の川」はまったく異質のものです。
第一に、川の場所がちがいます。三途の川は、この世とあの世を隔てている川であり、その向こうが冥土ということになっていますが、他方、黙示録に啓示されたいのちの川は、主イエスが戻ってこられて創造してくださった新しい天と新しい地の都エルサレムの中を流れる川です。
第二に、三途の川は死を思わせる川ですが、黙示録の告げる川は正反対に「いのちの水の川」です。そして、いのちの水を吸い上げているいのちの木は並木を成していて、諸国の民にいのちの実を与え、その葉はいやしを与えます。創世記2章では1本であったいのちの木がこちらでは並木をなしているのは、私たちの救いが単にアダムの堕落以前に回帰することではなく、それ以上の祝福であることを意味しています。
まさに、新しい天と新しい地とその都はいのちに満ち満ちています。私たちはこの世にあっては、実は、十分に生きておらず半分死んでいるようなものです。しかし、次の世に移されるときには十二分にいのちに満ちて生きるのです。
第三に、三途の川の向こうは、冥土と呼ばれる暗闇の世界ですが、それに対して聖書が私たちに教えている世界は、光に満ちた世界です。「22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」とあるように、圧倒的に輝かしい世界です。真っ暗闇の世界と、光り輝く世界と、あなたはどちらの世界で永遠を過ごしたいでしょうか。
2 いのちの水
ところで、いのちの水の川とは何のことなのでしょう。「それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。」とあります。神と小羊の御座というのは、父なる神と御子のいらっしゃる御座です。父と子から流れ出ているいのちの水とは、なにか?聖霊にほかなりません。父は子を愛し、子は父を愛し、両者をむすぶ愛は聖霊であるとはアウグスティヌスが言いましたが、その愛である聖霊があふれ流れ出て、都エルサレムを潤し、世界を潤すのです。このイメージは旧約の預言者エゼキエルが、むかし、受けた幻と重なります。
「 47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。 47:2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。 47:4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。 47:5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
そして、イエス様は聖霊こそ生ける水、いのちの水であると話されました。
ヨハネ4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
ヨハネ7:37-39
「7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
黙示録に描かれているいのちの水の川は、愛の三位一体の父と子の元から流れ出て、都の中央を流れています。改めて見てみましょう。
「22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
これは新しい天と新しい地には、きよい神の御霊が満ち満ちているようすを表現しているのです。そこには永遠に罪のしみも死の影すらもありません。
私たちは今の世にあって、自分自身の罪に悩み、死に対して恐怖を抱くものです。また社会に満ちている罪について憤り、死によって愛する者を失っては悲嘆にくれることです。けれども、来るべき新しい天、新しい地にあっては、そうした絶望、悲嘆、罪の悩みなどはありません。そうです、3節にあるとおり「もはや、のろわれるものは何もない。」のです。
先週、石川弘司先生の召天記念礼拝に出かけてきました。そこで先生の愛唱賛美歌 355番を歌って、先生が行かれたすばらしい天の御国を偲びました。
「主をあおぎ見れば 古きわれは
うつしよとともに とく去り行き
われならぬわれの現れ来て
見ずや天地ぞあらたまれる
美しの都エルサレムは
今こそくだりてわれに来つれ
主ともにいませば つきぬ幸は
きよき河のごと 湧きて流る
うるわし慕わし とこよの国
うららに恵みの 日影照れば
生命の木の実は みのりしげく
とわに死の影も なやみもなし
つゆだに功の あらぬ身をも
きよめてみくにの世継ぎとなし
黄金の御殿に 住ませたもう
わが主の愛こそ かぎりなけれ」
3 神のみ顔をあおぎ見ながら王として働く
「22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」
新しい天と新しい地に入った神の民は、どのような生活をするのでしょうか。彼らは「神のしもべとして神に仕え」ます。この世にあっても、私たちは神様にお仕えする奉仕の喜びということを知っています。私は学生時代にクリスチャンになってから、教会学校の係りや会堂清掃をしたり、会堂のペンキ塗りをしたりしましたが、それには特別の喜びに満ちたものである経験をしました。が、その奉仕にもこの世にあっては、体力や残っている罪の性質などの限界があります。けれども、やがて主の御国に入るときには、「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにより多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言われて、さらに喜びに満ちたご奉仕をさせていただくことになります。御国は、神のしもべとして、神のみこころを行なう場なのです。
4節には「神の御顔を仰ぎ見る」とあります。人は堕落の前、神との交わりのうちに生きていました。神の御顔を仰ぎ見ることは、人にとって至福のときでした。しかし、彼が善悪の知識の木の実をとって食べたとき、「神の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。かつてあれほど慕わしかった神のみ顔が恐るべきものとなってしまい、以後、旧約聖書を見ると「神の顔を見ると死ぬ」という記述が何度も出てきます。しかし、イエス様が来られて、貧しく心のきよい者たちを祝福しておっしゃいました。「心の清い者たちはさいわいです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)
神の御顔を見ることができるというのは、人間にとって至福の状態なのです。罪が赦され完全に罪をきよめられて、恐れなく神の御顔を仰ぐことが出来ることほど私たちの心に平安と喜びと感動を与えることはありません。私たちは今、信仰において神様の御顔をあおぐことのすばらしさを先取りしているのですが、それは新しい天と新しい地において、あの神の都において100パーセント実現するのです。
また、「神のしもべたちの額には神の名が付いている」とあります。名前がついているとはどういうことを意味するでしょう。それは持ち主の名がついているのです。名前がついていないと所有者がはっきりしません。しかし、愛の神様が、「お前はわたしのものだ」と私たちひとりひとりにおっしゃってくださるのです。これほど安心なこと、ありがたいことがほかにあるでしょうか。ありえないことです。
御国においては、私たちは神のしもべですが、同時に、永遠に王なのです。しもべであり、かつ、王である人生が、御国において完全に実現します。自由意志が神のみこころと完全に愛において一致しているのです。
王として、新しい天地を神のみこころに沿って治めることが、王としての奉仕です。それはかつてアダムが命じられながら果たすことのできなかった被造物の王としての務めです。天の御国は、父なる神と御子の臨在があり、父と子から流れ出る聖霊のいのちの水の川がうるおしているすばらしいところです。主イエスを信じる者は、神のご栄光と御霊のいのちに満ちた永遠の住まいで王として働くのです。
「 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」
主が私たちに用意していてくださる場所は、神の輝きに満ちたすばらしい世界です。
私たちは信仰において、この世にあって、すでにかの御国の住人であり、神のしもべとして王としての奉仕に生きることが許されています。きょうも私たちは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りました。この世に、神様のみこころが成るために、置かれた持ち場立場において、祈り、語り、行動してまいりましょう。