苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

いのちの水の川

「22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:1-5)


 明日の説教は聖霊シリーズ7回目で、一応最終回。黙示録13章1-5節からです。「いのちの水の川」は、神と小羊(キリスト)の御座から流れ出て地を潤しいのちを与えるのですから、聖霊を指しています。
 木曜日、石川先生の召天記念礼拝で、先生の愛唱賛美として、讃美歌355番を歌いました。うたえばうたうほど、これは黙示録のこの箇所の描写としての歌なのだとわかりました。

「主をあおぎ見れば 古きわれは 現世とともに とく去り行き
 われならぬわれの現れ来て 見ずや天地ぞあらたまれる
 
美しの都エルサレムは 今こそ降りてわれに来つれ
 主ともにいませば つきぬ幸は  きよき河のごと 湧きて流る
 
うるわし慕わし とこよの国  うららに恵みの 日影照れば
 生命の木の実は 実りしげく 永遠に死の影も 悩みもなし
 
つゆだに功のあらぬ身をも  きよめてみくにの世継ぎとなし
 黄金の御殿に 住ませたもう  わが主の愛こそ かぎりなけれ」