苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

輝かしい御国

黙示録22章1-5節

1.三途の川と冥土、いのちの水の川と天国

 死にまつわる川といえば、日本人のほとんどが連想するのは、三途の川でしょう。三途の川の向こう岸は冥土です。冥土の「冥」という字は「暗い」と読みますから、三途の川の向こうの冥土とは暗黒世界です。
 子どものころ、お盆になると、父が「お盆には地獄の釜のふたが開いて、先祖の霊が骨休めに帰って来るんや」と教えてくれたのを思い出します。子ども心に、「ああ、先祖は地獄に行っとうんか。ぼくも行かなあかんのかな。こわいなあ。」と思いました。
 お盆というのを調べると、盂蘭盆(ウラボン)ということばの略だそうです。ウラボンというのは、インドのウランバナという言葉がなまっ たものだそうです。ウランバナとは「倒懸(とうげん)」つまり逆さ吊りという意味です。逆さ吊り地獄ということです。
 いちばん古いお経を見ればわかることですが、お釈迦さんは死後の問題について何も話していません。盂蘭盆のことは、『仏説盂蘭盆経』という 3世紀頃に中国で作られた偽経に書かれています。お釈迦さんの高弟、目連が神通力で餓鬼道地獄に落ちている母親が渇きで悲惨な状態に陥っているのを 見て、水をやろうとしますが、ジューッと乾いてしまって、やることができません。それで悲しんでいると、お釈迦さんが修行増に施しをしたら、お母さんに届くことになるよと教え たというのです。それと、日本古来の迎え火送り火の習俗が合体したのが、日本で言うお盆の行事のようです。 いずれにせよ、死後の世界は冥土つまり光のない暗い世界と呼ばれ、死後はウランバナにされるかもしれないというので、人は死を考えると恐ろしく暗い気持ちになってしまいます。

 これに対して、聖書がいう主イエスがもたらされる約束の御国とはどういうものでしょうか。そこに流れる川は「水晶のように光るいのちの水の川」です。水晶のように透き通って光っているという描写は、その純粋性、きよさを表現しています。
三途の川は、この世とあの世を隔てている川であり、その向こうが冥土ということになっていますが、他方、黙示録に啓示されたいのちの川は、新しい天と新しい地の都エルサレムの中を流れる川です。  三途の川は死を思わせる院隠滅滅たる川ですが、黙示録の告げる天の都の川は正反対に「いのちの水の川」です。その水を吸い上げているいのちの木は、エデンの園では一本だったのに、ここでは並木を成していて、諸国の民にいのちの実を与え、その葉はいやしを与えます。まさに、御国はいのちに満ちあふれた世界です。私たちが住んでいるこの世は、実は、いのちの主である神様を十分には知らない世界で、争いや憎しみや悲しみがあり、そこには死の臭いします。しかし、イエス様を信じた者たちが入れていただく御国はいのちにあふれています。
そして、三途の川の向こう岸は冥土と呼ばれる暗黒世界だそうですが、イエス様を信じた者が約束された向こうの世界は光に満ちた世界です。「22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」とあるように、圧倒的に輝かしい世界です。

注)シャカは死後に無関心だったことについては、こちら。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130505/p2


2 いのちの水


 ところで、いのちの水の川とは何のことなのでしょう。「それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。」とあります。ヨハネ文書では、神とは父なる神を指し、小羊とはキリストを指しています。ですから、神と小羊の御座というのは、父なる神と御子のいらっしゃる御座です。では、父と子から流れ出ているいのちの水とは、なにかといえば、三位一体の第三位格である聖霊にほかなりません。父は子を愛し、子は父を愛し、両者をむすぶ愛は聖霊であるとはアウグスティヌスが言いましたが、その愛である聖霊があふれ流れ出て、都エルサレムを潤し、世界を潤すのです。したがって、天国というのは、神のきよい愛でたえず潤っている世界です。そして、イエス様は聖霊こそ生ける水、いのちの水であると話されました。

ヨハネ7:37-39
「7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

黙示録に描かれているいのちの水の川は、愛の三位一体の父と子の元から流れ出て、都の中央を流れています。改めて見てみましょう。

「22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」

これは新しい天と新しい地には、きよい愛の神の御霊が満ち満ちているようすを表現しているのです。そこには永遠に罪のしみも死の影すらもありません。
私たちは今の世にあって、自分自身の罪に悩み、死に対して恐怖を抱くものです。心の中に罪があり、口びるで悪いことを言い、手で悪いことをしたならば、死後に聖なる審判者の前で、必ずさばきを受けなければなりません。だから罪は恐ろしいのです。また社会に満ちている罪について憤り、死によって愛する者を失っては悲嘆にくれることです。けれども、天の御国では、絶望、悲嘆、罪の悩みなどはありません。そうです、3節にあるとおり「もはや、のろわれるものは何もない。」のです。
罪の問題を抱えたままでは人は天国に行くことはできません。そういう人が天国に行けば、天国は罪だらけになって地獄と変わらないものになってしまいますから。そこで、イエス様は私たちの罪を背負って十字架で死んでくださり、私たちと神様との聖なる愛の交わりを回復してくださいました。神様の前で自分の罪を認め、「私はイエス様を信じます」と言う人には、誰にでも天国に入る約束を与えてくださいます。主イエスを信じる者は、主が迎えに来てくださるときに、すべての罪と汚れを洗い流されて、きよい者とされて天の御国に入れていただけるのです。

さらに、究極の御国では「もはやのろわれるものは何もない」というのは、人間のたましいのことだけではありません。被造物全体が救われるのです。今は苦しみうめいていますが。かの日には栄光のうちに入れられます。人間だけでなく、都の周辺の自然界でも争いは絶えて、愛と平和に満ちているのです。預言者イザヤのことばです。

11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、
  子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、
  獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。
  【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。


 
3 神のみ顔をあおぎ見ながら王として働く



御国では、神の民はどのような生活をするのでしょうか。御国で、あなたはどんなことをして暮らすつもりでしょうか。ただボケーッとしているのではありません。彼らは「神のしもべとして神に仕え」ているとあります。神に仕える喜び、奉仕の喜びです。

「22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」

やがて主の御国に入るときには、「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにより多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言われて、さらに喜びに満ちたご奉仕をさせていただくことになります。御国は、神のしもべとして、神のくださった仕事を思う存分に行なう場なのです。
4節には「神の御顔を仰ぎ見る」とあります。人は堕落の前、神との交わりのうちに生きていました。神の御顔を仰ぎ見ることは、人にとって至福のときでした。しかし、彼が善悪の知識の木の実をとって食べたとき、「神の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。かつてあれほど慕わしかった神のみ顔が恐るべきものとなってしまい、以後、旧約聖書を見ると「神の顔を見ると死ぬ」という記述が何度も出てきます。しかし、イエス様が来られて、貧しく心のきよい者たちを祝福しておっしゃいました。「心の清い者たちはさいわいです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)
神の御顔を見ることができるというのは、人間にとって至福の状態を意味します。罪が赦され完全に罪をきよめられて、恐れなく神の御顔を仰ぐことが出来ることほど私たちの心に平安と喜びと感動を与えることはありません。天の御国では、私たちは神のお顔を仰ぎ見て、感動にふるえるでしょう。信州人ならば、きっとバンザーイ、バンザーイ、バンザーイと三唱するにちがいありません。
また、「神のしもべたちの額には神の名が付いている」とあります。所有者の名がついているのです。愛の神様が、「お前はわたしのものだ」と私たちひとりひとりにおっしゃってくださるのです。これほど安心なことがほかにあるでしょうか。

そして、御国においては、私たちは神のしもべですが、同時に、永遠に王でもあります。しもべであり、かつ、王である人生が、御国において完全に実現します。自由意志が神のみこころと完全に愛において一致しているのです。「 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」
王として、全被造物が贖われた天の御国を神のみこころに沿って治めるのです。主が私たちに用意していてくださる場所は、こんなすばらしい世界です。

結び
先に天に召された兄弟姉妹は主イエスの御許にいます。そして、主イエスが再び来られたとき完成する御国は、まことの神、父と子と聖霊の臨在されるところであって、光といのちと愛とに満ちています。そこでは人間だけでなく、全被造物が祝福のうちに入れていただけるのです。
今の世は、あの御国への備えの決断と生活をするときです。私たちも間違いなく天の御国に行くことができるために、まず、神様のまえに自分の罪を認めて、イエス様を信じましょう。そして、神様に喜ばれる生活をしましょう。それは、全身全霊をもって、まことの神、キリストを礼拝し、隣人を自分自身のように愛し、被造物全体がまことの神を賛美する生活です。