ちとしつこいですが、マイブームの本当のシナイ山と出エジプトの本当のルートの話。上のBible Hubの地図では、シナイ半島のが4世紀以降の伝統的・観光的ホレブ山で、アカバ湾の東側ミデヤンの地にあるのが、最近知られるようになった「本当のホレブ山」と言われる山の位置です。
赤い線は、出エジプトのルートで、私が書き込みました。アラビア人の交易の道を通って、途中からアカバ湾へと向かっています。
1.興味深いビデオです。ぜひご覧ください。
出エジプトルート
http://www.youtube.com/watch?v=X7dhj3wWxpU
本当のシナイ山
http://www.youtube.com/watch?v=QdMDm3apWzU
ビデオの要点をまとめてみます。
2.出エジプト2:15にはモーセはミデヤンの地に住み、ミデヤンの祭司イテロと出会ったとありますし、3:1にはミデヤンの祭司イテロの羊を飼って、神の山ホレブに来たとあります。このミデヤンの地は、シナイ半島ではなく、アカバ湾の対岸アラビア半島にあります。パウロも「アラビアにあるシナイ山」(ガラテヤ4:25)と言っています。
出エジプト2:15 「パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。」
出エジプト3:1「モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。」
3.4世紀にコンスタンティヌス帝の母ヘレナに認定された、シナイ半島のホレブ山の周辺には、観光のために後世造られた建造物はあっても、遺跡としてこれがホレブ山であることを示すものは何一つ存在しません。
これに対して、ミデヤンのホレブ山には、子牛がささげられた祭壇跡や、エジプト風の子牛の偶像的壁画や、十二部族を意味していると思われる十二の柱跡、七つの燭台壁画などが残っています。
「それで、モーセは【主】のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。」(出エジプト24:4)
また、神の山と目される頂上は高熱にさらされて黒く焦げているのも特徴的です。
(2015年1月追記:もっとも山が黒く焦げているという現象はほかの地域にも見られるので、必ずしも証拠には当たらないという指摘があります。)
また二百万人もの人々ののどを潤すために、岩を割って与えられたという水がたまった池の跡と目される場所も近くにあります。
4.イスラエルの民が歩いてわたった「葦の海」と目されるアカバ湾には、西側に渡る前に二百万はいたであろうイスラエルの民が集結したであろう今日ヌウェイバの浜と呼ばれる砂浜があり、しかも、その沖合の海底にはサンゴがくっついたエジプト軍の戦車の車輪が発見されています。対岸側の海底でも同じものが発見されています。
下は、アカバ湾の渡海地点と想定される場所の両岸で撮影されたという写真。上の写真では外輪とスポークが見えるし、下はハブがあります。車輪でしょう。サイズもぴったりだそうです。この証拠は決定的でしょう。ねつ造でない限り、ですが。
出典:http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30230523.html
海底の遺物と見比べてください。
トトメス3世の戦車
戦車の車輪製作の図
(岡島誠太郎『エジプト史』より)
5.ただ、残る疑問はなぜシナイ半島にないのに、この山はシナイ山と呼ばれるのだろうか?ということです。シナイ山といえば、誰だってシナイ半島のどこかだと思ってしまいます。
それとも、そもそも、あの三角形をシナイ半島と呼んだことがまちがいだったのでしょうか。いつから、あの半島はシナイ半島と呼ばれるようになったのでしょうか。4世紀にあの山をシナイ山と呼ぶようになったことから、シナイ半島と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
だとしたら、この疑問も解けたことになります。シナイ半島はいつからシナイ半島と呼ばれるようになったのでしょう?読者でご存じの方がいたら教えてください。
<金井師のコメントを受けて後追記その後また、さらに日数を修正したもの>
6.「葦の海」を旅立って三日間歩いてエリムにつき(出エジプト15:22−27)、さらに「エリムを旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。」とあります。
エジプトのゴシェンの地を出発したのは、第一月(アビブの月、ニサンの月)の14日か21日(12章を読むとどちらか判然としない)。だから、ゴシェンの地から葦の海まで19日間か26日間です。
ゴシェンの地から伝統的な「葦の海(今でいうスエズ運河あたり)」まで19日から26日間もかかったというのは、あまりにも不自然で、むしろアラビア商人の道を通ってアカバ湾の畔まで行っていたと考えた方が自然ではないでしょうか。アカバ湾こそ、モーセと民が渡った「葦の海」なのではないでしょうか。
<追記 2021年4月>
「海底の遺物が原型をとどめすぎているのではないか?」という疑問を持つ向きもあろうかと思います。しかし、海底であったからこそ、遺物が風化しないで残るものなのです。スウェーデンに出かけたとき、17世紀前半に活躍した王グスタフ・アドルフ2世が建造した巨大木造戦艦ヴァ―サを見ました。これは1628年8月10日の処女航海のとき出港まもなく沈没してしまい、三百数十年海底に放置されていたのですが、それが1956年に発見され、1961年に引き上げられました。船の彫刻の細々としたところまで、きれいに残っています。こちらをご覧ください。
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