私が洗礼を受けた改革長老教会東須磨教会は、牧師(宣教長老)と複数の長老(治会長老)によって治められていた。牧師は宣教長老であるから毎主日説教をするのは当然であるが、信徒である治会長老も夕礼拝では順番に説教卓に立って説教・奨励をすることがあった。牧師の説教のように本格的な釈義をしたものではないけれども、長老の説教は素朴ではあったが、社会の経験を踏まえていて興味深くもあった。
同盟基督教団の教師になり数年たって30歳の頃、教団の将来について検討する委員会のメンバーに加えられて、筆者は献身者発掘について調査をしたことがある。それで教職の人口動態を調べてみたところ、当時の見通しとして、もし65歳までならば戦後にごっそり献身して牧師になった層があと20年もたつとごっそり引退して牧師が決定的に不足することがわかった。その後、実際には健康寿命が伸びて65歳まででなく70歳、人によっては70半ばまで主任牧師として働いてくださったおかげと、新たな献身者が起こされたおかげで、10年ほど前までは同盟基督教団ではなんとかギリギリ教師が足りていた。しかし、その後、この教団でも教師が不足し、牧師が複数教会を兼任せざるをえない状況が起こって来ている。
教師が将来不足していくであろうことがわかった35年前、筆者はある教団の会議で信徒説教者の養成が急務であるということを提起したことがある。しかし、その後、理事会における検討の末、教団人事対象とならない信徒説教者を教団として認定することはむずかしいので、各地域教会またはブロック(宣教区)で主体的に進めていただくのが良いということになった。だが、実際には諸教会・宣教区では信徒説教者養成が進んだという話はほとんど耳にしたことがない。
なぜ同盟基督教団では信徒説教者の養成は進まないのだろうか。筆者が思うに、これは同盟基督教団だけでなく、簡易信条主義の教団に共通することではないだろうか。改革長老教会ではそれが可能なのに、簡易信条主義の教団ではできないのは、標準的な教理教育システムがないからであろう。自分で教理の真偽を見分けられるレベルに達する教育を修めていない信徒に安心して説教壇を委ねることができないのである。任せてみたら、信徒説教者が異端的なことを話し出すかもしれないから、任せられないのである。説教において釈義はもちろん重要なのだが、かりにある聖書本文の釈義でミスがあったとしても、神観・人間観・キリスト観・救済観・教会観・終末観などで重大な教理を間違えていなければ、教会にとって大きな害はない。けれども、教理を間違えてしまうと、大きな問題となる。だから、簡易信条主義の教団・教派では信徒説教者の養成がむずかしいのではないだろうか。
ふつうは、簡易信条主義の教団教派は柔軟性があり、本格的信条に立つ教派は柔軟性を欠くと言われるのだが、こと信徒説教者の養成という課題に関しては、簡易信条主義の教団教派の方が二の足を踏まざるを得ない理由の一つは、こういうことではないかと思う。今日、ある神学生と、信徒説教者の養成について語らうことがあって、そんなことを思わされた。今まとめようとしている『教理問答書』がそういう役に立てばなあ、と思っている。