苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン1月24日  死せる神にあらず、生ける神

出エジプト15:1


「【主】に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。」(新改訳)


「主にむかってわたしは歌おう、
彼は輝かしくも勝ちを得られた、
彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。(口語訳)


我ヱホバを歌ひ頌ん彼は高らかに高くいますなり彼は馬とその乗者を海になげうちたまへり(文語訳)


主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。(新共同訳)

感想
 表現としておもしろいのは、「輝かしくも勝利を収め」「輝かしくも勝ちを得」「高らかに高くいます」「大いなる威光を現し」と訳された「ガーオー・ガーアー」。「高く高められた」が直訳で、「高らかに高くいます」という文語訳がそのままであり、新共同訳「大いなる威光を現し」はその意味を取った訳。「勝利」(新改訳)「勝ち」(口語訳)という語を入れるのは、いかがなものか?

 場面は、エジプトを脱出した民に追いすがるエジプト軍を主が「葦の海」で葬られたあの出来事の場面である。この場面に来ると、昨年マイブームで知ったことが印象深い。4・5世紀以来、「葦の海」は旧来スエズ湾であると思われて発掘が試みられて来たが何の痕跡もなかったが、実は、「葦の海」はアカバ湾のほうであったという近年の説の件である。
 当時のエジプトの勢力範囲は今で言うシナイ半島にまで及んでいたから、スエズ湾では「出エジプト」にならなかった。シナイ半島を脱してこそ、出エジプトだった。だとすると、葦の海はスエズ湾でなくアカバ湾ということになる。
 そのことに注目したことがきっかけかどうかは知らないが、アカバ湾にダイバーが何年にも渡って潜り、遺物を発見したのだという。若かったら、自分も行って潜ってこの目で確かめたいところ。でも泳げないから無理。
 こちら、参照。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140313/p3

 神は経験界には属さず、英知界にのみ属すというのがカントの以来の認識論の枠組みであり、今もインテリを束縛しているが、それは「聖書も神の力も知らない」サドカイ派の哲学。まことの神は生ける神である。