苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈と言語・文化的背景

 もし主と教会のお役に立つならばと思って、『神を愛するための教理問答』(仮題)の原稿をまとめつつあります。その中で聖書の読み方について述べたいくつかの問答のうちの一つを、紹介しておきます。

問2-9 聖書解釈において文化・言語的背景を参考にする場合、注意すべきことはなにか?

答 その巻の書かれた時代の周囲の文化・言語と聖書との表面的類似を見出した場合、本質的相違を読み取り、執筆者が最初の読者に伝えようと意図したことを見出すことである。

<解説>

 聖霊は、当時の言語を用いて神のメッセージを表現して啓示なさったから、聖書には同時代の文化・言語との表面的類似はある。しかし、聖書は啓示の書であるから、同時代の文化・言語によってすべてを説明することはできない。むしろ、その本質的相違にこそ注目すべきである。

 同時代の文化・言語との表面的類似に囚われて、聖書を読み間違えた例を紹介しておく。新約聖書と同時代のユダヤ教文書の罪観・救済観・終末観を物差しとして、イエスパウロを解釈する学者がいる。だが、その時代のユダヤ教文書における罪観・救済観・終末観とは、イエスの周辺にいながらイエスを理解できなかったユダヤ人たちの罪観・救済観・終末観にすぎない。また、パウロは「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1・11,12)と断言しているのだから、それを、同時代のユダヤ教に還元して解釈するのは的外れである。