苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

福音の時代のライフスタイル

マルコ2:18−22

2016年6月26日 苫小牧福音教会主日

2:18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
2:20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
2:21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」

1 ヨハネの弟子とパリサイ人

 今日の箇所には、断食をめぐって三つのグループが出てきます。一つはヨハネの弟子たち、一つはパリサイ人たち、一つは、主イエスの弟子たちです。まず、ヨハネの弟子とパリサイ派の人々は断食を定期的にしているのに、イエス様の弟子たちは断食をせず楽しそうにしているのが、彼らには気に食わなかった。不真面目に見えたのでした。そこで、彼らはイエス様に質問をしにきたのです。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
 ヨハネの弟子たちと、パリサイ人はともに断食しましたが、その意味は違うので、まずそのことを説明しましょう。

(1)ヨハネの弟子たち・・・悔い改めの断食
 ヨハネの弟子たちの師はバプテスマのヨハネです。荒野でいなごと野蜜を食べ物として、らくだの毛衣を着て、民に「悔い改めよ」と叫んだヨハネは、旧約時代最後の預言者でした。彼は律法を正しく理解していました。
旧約時代の宗教とは、一言で言えば「悔い改めとメシヤ待望」ということです。旧約聖書には、神が与えた十戒をはじめとする律法が記されています。その律法に誠実に向き合うならば、人は己の罪を認めざるを得ません。律法はいっさいの偶像礼拝を禁じ、主の御名をみだりに唱えることを禁じ、安息日をまもることを求め、父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、隣人のものを欲しがってはならないと命じています。・・・律法の命じることは、ごく当たり前のことですが、その当たり前のことすら実行できないのが人間の現実です。その惨めな自分の罪の現実を認めて、神の前に罪を告白して「罪深い私をゆるしてください。」と悔い改めるのです。律法は人を罪に定め、悔い改めへと導き、メシヤを待望させます。旧約の宗教とは、悔い改めとメシア待望の宗教です。
そこでバプテスマのヨハネヨルダン川で「悔い改めなさい。メシヤが来られる。」と告げたのです。ヨハネと彼の弟子たちにとって、断食とは、己の罪を深く悲しむ表現としてのものでした。実は、旧約の律法のなかには断食についての定めはありません。しかし、己の罪を嘆き悲しんで、断食したという記事はあちらこちらにあります。ヨハネの弟子団の中では、断食が習慣化されていたようです。

(2)パリサイ人・・・自己義認・虚栄の断食
 次に、パリサイ人たちはどういう人々であったのでしょうか。彼らは、自分たちこそ旧約の預言者たちの正しい継承者だと自負していたようです。しかし、イエス様の目から見ると、パリサイ人たちは旧約の律法、その宗教を根本的に誤解した人々でした。
 パリサイ人たちは、律法を守ることに一生懸命で、その律法の行いによって、神の前に自分の義を立てることができると教えていたようです。たとえば、審判のとき、神の前には天秤があって、律法にしたがって善を行うと右の皿に分銅が一つ載せられ、律法に背く悪をなすと左のお皿に分銅が一つ載せられます。そして、生涯を終えたとき、天秤の右の皿が下がっていたらその人は祝福に入れられ、左の皿が下がっていたらのろいを受けることになるというのです。
 律法をまもることに熱心なのはよいことですが、それを点数稼ぎのように考えて神の前に自分の義を立てて、神の法廷で勝利を得られるというのは、大きな誤解です。

神様はそもそも律法をお与えになったとき、人間にはこれを完全には守れないことをご存知でしたから、道徳律法と同時に罪の償いとしていけにえの儀式も同時にお定めになっていたのです。つまり、神がイスラエルに律法を与えた本来の意図は、①神の前にきよい生活をいとなむ基準を示すこと。②神の前の罪を自覚させ、悔い改めて神の前のいけにえ(キリスト)を待望させることだったのです。
パリサイ人は、律法の役目を根本的にとりちがえていました。その結果、パリサイ人の宗教は悔い改めの宗教でなく、自己義認の偽善の宗教になっていました。彼らも断食をしていましたが、それは己の罪を悔いる悲しみの表現としての断食ではなく、「私はこれほど敬虔な人間なのですよ」と誇るための偽善的な行いになってしまっていたようです。
私も断食してみた経験があるのですが、心の中にムラムラと、「実は、今断食して祈っていることがあるんです。」と自己宣伝したいという衝動にかられました。

こういうわけで、ヨハネの弟子たちは悔い改めの断食をし、パリサイ人たちは自己義認・偽善の断食というふうに、両者の動機はまるでさかさまでした。しかし、少なくとも断食をするという点では共通していました。ところが、主イエスの弟子たちは、なんだか全然雰囲気が異なっていて、なんだかやたら楽しそうで、驚いたことに取税人や遊女までいっしょにわいわいとご飯を食べているのです。彼らの目には、主イエスの弟子たちの生活ぶりは、不謹慎に映ったのでした。そこで、彼らはイエスに質問をしにやってきたのでした。

2:18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」

2 主イエスの弟子たち・・・福音的ライフスタイル

(1)旧約との連続性
まず、主イエスヨハネの連続性とついて説明します。主イエスとその弟子たちは、バプテスマのヨハネと同じように旧約の預言者の伝統を正しく引いていました。つまり、主イエスはご自分の弟子たちに対して、パリサイ派たちのような自力主義でなく偽善でなく、誠実に神の戒めを守って生きることを要求なさいました。いや、ヨハネが求めた以上に誠実であることを求められました。

マタイ5:20 「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

パリサイ人が「殺すな」と命じるならば、主イエスは、「君たちは兄弟に向かってばか者というだけでもいけない」というのです。パリサイ人が「姦淫するな」というなら、主イエスは「情欲をもって女を見るだけでも姦淫だ」というのです。パリサイ人が「同胞は愛し、ローマ人は憎め」というのなら、主イエスは「君たちは敵をも愛しなさい。」というのです。
「律法というものは、表に出た行動面だけ守ればよいわけではない。律法の根本精神は、神への愛と隣人への愛なのだ」というのが新約時代の主イエスの弟子の生きる道です。これは、旧約の預言者以来の教えであり、それをさらに徹底した教えでした。

(2)旧約に対する新しさ
けれども、主イエスがもたらされた信仰には、旧約時代に属するヨハネの教えに対して、新しい点があります。それは、今日の箇所でいうならば、主イエスの弟子の生き方には、喜びと自由があり柔軟だという点です。旧約の預言者ヨハネは、悔い改めと悲しみを基調として堅苦しいところがありましたが、主イエスのもたらした福音の世界には、悔い改めと同時に喜びと自由が満ちているのです。
なぜでしょうか。それは、ついに預言が成就して待ちに待ったメシヤが現に来られたからです。旧約の預言者たちは、メシヤを待望する者でしたが、メシヤにある新約時代の救いの喜びを得たわけではありませんでした。これに対して、主イエスの弟子たちは、現に、メシヤつまりキリストにある救いの喜びを与えられたのです。この喜びを、主イエスは、ご自分を花婿にたとえ、弟子たちを花婿の友人にたとえて表現なさいました。
2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
 これは当時のユダヤにおける結婚式の祝いの習慣を背景としたことばです。当時の結婚式ではそのお祝いは数日間続いて、その間中は、通常の断食もしてはならないことになっていたそうです。結婚というのは、それほど喜ばしい出来事だからです。結婚は、メシヤと神の民との愛の交流の型であるからです。そんなめでたいときに、悲しみの表現である断食はふさわしくないものです。今で言えば、結婚式に黒いネクタイを締めて参加するほど失礼にあたります。
 今、神の遣わされたメシヤつまりキリストがこの世の来られたのですから、その弟子たちがキリストと交わっている最中に悲しみの断食をすることは、ふさわしいことではないのだということになります。

 しかし、主イエスは闇雲に断食を否定したのではありません。

2:20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。

エス様が敵に逮捕され、十字架にかけられるときには、弟子たちは悲しみのあまり食事がのどを通らないようになって、断食をすることになるのだというのです。つまり、新約の時代においては、断食という行為は、形式化したものではなく、神の御前における内なる悲しみの発露としてのものであるというのです。
主イエスの十字架の死は、私たちの神の前における罪の罰を背負うための死でした。私たちの罪ののろいを身代わりに受けて、私たちを救うための死だったのです。そうして三日目に主イエスは、私たちの罪ののろいを引き受け終わったことの証として死者のなかからよみがえってくださいました。
ですから、神の前における自分の罪を認め、主イエスを救い主として信じて受け入れる人は一人残らず、神の前に罪を赦していただくことができます。そればかりか、その心のうちに聖霊の注ぎをいただいて、神を愛し隣人を愛するという本来の人間としての目的にかなった素晴らしい人生を歩みだすことができるのです。クリスチャンの人生は、①御子キリストの贖いのゆえに神との間に与えられた平和のなかで、②神を愛し隣人を愛することも人生の目的として生きていくことが許された人生なのです。かつては良心の呵責に悩まされ、神を見失い、何のために生きているのかさっぱりわからず、「ああ、なんと人生はむなしいのだろう」とつぶやいていた人が、神を愛し、隣人を愛するという目的のうちに歩んで生きて行けるようになったのです。これほど素晴らしいことはありません。


3 新しいぶどう酒は新しい皮袋に

2:21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」

 イスラエルでは水やぶどう酒などを保管するのに、羊のような動物の皮を用いました。新しい葡萄液は発酵して旺盛に炭酸ガスを発生させますから、それを入れた皮袋は内側からパンパンに膨らみます。皮袋が古くて硬いとはじけてぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しい生命力あるぶどう酒は、新しい柔軟な皮袋に入れれば、ちゃんと保管することができます。
 主イエスが来られてもたらされた新約時代のキリストの弟子の生き方は、キリストがもたらされた救いにふさわしいものであるべきだとおっしゃるわけです。では、新約の時代は旧約の時代の信者たちとどのような点で違っているでしょう。旧約時代の人々は、繰り返しいけにえをささげましたが、罪を赦されきよめられませんでしたが、新約の時代は神の御子がいけにえとなられたので神に罪を赦されたという確信と平安をもつことが許されているのです。
 また、新約の時代のもう一つの大いなる特徴は、よみがえられた御子が天の父のもとに行かれて、父のもとから聖霊をすべての信者に注いでくださったことです。かつて石の板に刻まれた戒めは、今は心の板にしるされましたから、私たちは内側から自発的に主を喜び従う者です。御霊は子とする御霊です。私たちは、主イエスを兄とし、神を「おとうさん」と呼んで、恐怖でなく、愛と喜びをもって神に仕えます。そこには、御霊の自由があるのです。 罪赦された確信をもち、御霊の自由の中で、私たちはキリストにあって神に愛されている子どもたちとして、愛に生きることが許されているのです。使徒パウロは旧約と新約のライフスタイルの違いを端的にこう言いました。
 「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。 13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。 13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:8b−10)
 「これはしてはいけないだろうか?」と消極的に考えるのでなく、むしろ積極的に、これは愛することだろうかと祈り考えて、そうだと思えるならば実行する。ただ私たちの会いは肉的になりがちなので、キルケゴールのことばをガイドにしています。「人を愛するとは、その人が神を愛することができるように助けることであり、愛されるとはそのように助けられることである」。そういう積極的な愛の生き方が、新しいぶどう酒にふさわしい新しい皮袋、福音の時代の新しいライフスタイルなのです。