苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨルダン川の水の壁は高層ビルのように

「全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。
 箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、―― 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った。 (ヨシュア3:13−17)


 モーセが主の命によって葦の海をわけて民を渡らせた40年前の出来事が、今度はヨルダン川をわけるというかたちで再現された。ただ、海と川のちがいがあることを見落としている絵本や紙芝居の絵を見ることがある。海であれば、水の壁は両側に立つことになろうが、川の場合は、水の壁は川上の側にそそり立ち、川下の側の水はなくなる。しかも、民が渡っていく間中、どんどんその水の壁は高くなっていったわけである。おりしも刈り入れの季節で、水量は非常に多かった。
 イスラエルは男だけで六十万人と言われるから、川を渡りきるには相当の時間を要したと思われる。もちろん最短の時間で渡ろうとすれば、水の壁が立ちあがる場所から川下に向けて横一列になれば最短で渡ることができたであろうけれども、実際に、どういう渡り方をしたかについて聖書にはしるされていない。
 だが、高層ビルのようにそそり立つ水の壁に祭司たちがおそれを感じてしまわないためであろう。主は、水の壁は「はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立つ」ようにされた。祭司が立ち、民がわたっていくすぐそばに数百メートルもの高さの水の壁が立ちあがりさらに見る見る高くなっていったら、恐ろしさに信仰もなえてしまったかもしれない。主は再出発した民を必要以上の試みにあわせることをなさらなかった。
 この場面、目に思い浮かべて読むと、いろいろ考えさせられる。


 ソメイヨシノよりも色が濃いヒガンザクラかな。調べてみましたが桜は品種が多すぎて特定できません。小海ではソメイヨシノはまだです。