苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

信仰と魔術のちがい

4:3民が陣営に退いた時、イスラエルの長老たちは言った、「なにゆえ、主はきょう、ペリシテびとの前にわれわれを敗られたのか。シロへ行って主の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。そして主をわれわれのうちに迎えて、敵の手から救っていただこう」。 4:4そこで民は人をシロにつかわし、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから携えてこさせた。その時エリのふたりの子、ホフニとピネハスは神の契約の箱と共に、その所にいた。(サムエル記上4章3、4節)


 イスラエルの民は契約の箱を、あたかも便利な魔法の箱のように思い込み、扱っていた。ヨシュアの時代、契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の中に足を踏み入れたら、ヨルダンの水は壁のようにそそり立ったのだから、契約の箱さえあればペリシテ人との戦いにも勝てるにちがいないと思ったのである。
 だが、そうはならなかった。彼らは契約の箱を魔術のように考え、神の力を自分たちの都合によって利用できると考えていた。神は主権者であられて、私たちに手軽に利用されるようなお方ではない。むしろ、ぎゃくなのである。