苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月9日  説教とは

ネヘミヤ8:10
8:9総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである。 8:10そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ローズンゲンでは末尾の「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」だけが取り上げられているが、文脈がたいせつなところ。エルサレム陥落と崩壊、その再建のためにネヘミヤの指導の下、先祖の地に戻ってきて多くの妨害を乗り越えて、ついに城壁が再建された。
 民は水の門に集まって、祭司エズラが夜明けから真昼まで律法の書を朗読するのに耳を傾けた。そして、朗読された律法が彼らに説き明かされ、それを理解したとき、民は泣いた。先祖の罪、エルサレムの陥落、しかし、今、故郷にもどって城壁再建を主が許してくださった。・・・万感溢れて泣かずにはいられなかっただろうと思う。
 だが「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたの力だ」とエズラは言う。そう言うエズラの声も震えていて、その両の眼からは熱い涙があふれていた・・・というふうに私には思えてしまう。
 神学生時代、ある教師が、この箇所から説教とは何かを教えてくださった。説教とは、みことばの説き明かしである、と。イスラエルの民も、すでにこの時代になると先祖の時代に書かれた律法のことばが十分には理解できなくなっていたが、その説きあかしを聞いて、これを理解することができたのだ、と。