苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自分で労しなかった地を

 「わたしは、あなたがたの前に、くまばちを送って、あのアモリびとのふたりの王を、あなたがたの前から追い払った。これはあなたがたのつるぎ、または、あなたがたの弓によってではなかった。 そしてわたしは、あなたがたが自分で労しなかった地を、あなたがたに与え、あなたがたが建てなかった町を、あなたがたに与えた。そしてあなたがたはいまその所に住んでいる。あなたがたはまた自分で作らなかったぶどう畑と、オリブ畑の実を食べている」(ヨシュア24:12,13)


 自分の力で勝ち得たと思っているぶどう畑とオリーブ畑だが、実は、主があらかじめ用意していてくださったものなのだ。思いあがるな、感謝を忘れるな、謙虚であれ、と。

「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。 そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。 わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。    ヨハネ福音書4:35−38

追記
 若いころ、プライベートな会話のなかで、「宣教師から群れを引き継いだけれど、教会形成がわかっていない宣教師からだったから、引き継いで後の苦労は惨憺たるものでした」というふうな話を先輩牧師から聞かされたことが二三度あった。
 しかしまた、ほかの先輩牧師から、「宣教師は人集めをしただけで・・うんぬん、ということをいう人が多いけれど、異国で生活を始めてゼロから人集めをするということには、たいへんな愛の労苦があったことを牧師はもっと知るべきですよ。」とうかがった。
 どちらも経験をふまえたことばなので、軽んじるべきではないと思う。だが、私は二つ目のことばをより強く意識して生きて行きたいと思う。