苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

希望

2コリント4:16−5:10
2011年11月6日 召天者記念礼拝

 
 この南佐久郡で福音の宣教を始めてから、八人の主にある兄弟姉妹を天に送りました。最初はN姉でした。・・・・中略・・・・
 以上、紹介いたしました。神様はそれぞれに人生を恵み、それぞれに出会ってくださって、御国へと召してくださいました。私たちもそれぞれ自分に与えられた人生を誠実に歩んで、そのときが来たならばイエス様の前に出たとき、「よくやったよい忠実なしもべた。」と肩を抱いていただけるような生き方をしたいと思います。

1.日々新たにされる希望
16節
 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
 使徒パウロがこの手紙を執筆したとき、彼が60歳を過ぎた頃であったろうと思われますが、正確には知る由がありません。ですが、「外なる人」が衰えるということを使徒パウロは実感するような年齢になっていたのです。「外なる人」とはなんのことでしょうか。私としては、人間を「からだ、たましい、霊」と分ける考えに立って、「からだとたましい」が外なる人を意味し、「霊」が内なる人を意味していると理解するのが適切だろうと思います。「からだ」はいうまでもなく肉体のこと、「たましい」とは知性・感情・意志といった脳の機能です。たしかにこれらのものは、年を取っていくと衰えるものです。
 私は53才です。「へえ、もうそんな歳になったか」と我ながら思いますが、ある人は「若くていいですね。」と言ってくださいます。けれども、確かに外なる人の衰えというのは30代後半頃から感じ始めました。18年前小海で伝道が始まったころ、長男の運動会に出かけると結構走ることができたりしました。ところがその6つ下の娘の運動会になると、「あれ?おかしいな。」と感じるようになり、さらにその3つ下の次男の運動会にはなるべく出場しないようにしないと怪我をしそうだなと感じるようになりました。
 また脳の機能面においても、老いにともなって、今聞いたことをすぐ忘れるといったこと、気力がおとろえるというか、頑張りがききにくくなるとかということも起こってきます。そうすると、心細くなってきますよね。以前、私はKさんを訪問していたころ、物忘れが激しいことでずいぶん不安になっていらしたことを思い出しますが、その頃私にはその不安がよく理解できませんでしたが、自分自身もふと物忘れするようになって、そうした不安がわかるようになってきました。

 けれども、使徒パウロは「私は勇気を失いません。」といいます。なぜですか。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。これは驚くべきこと、キリスト者に与えられたすばらしい特権ではありませんか。主イエス・キリストを信じているならば、主イエス・キリストの御霊をうちに宿しているので、内なる人は、老いと共にいよいよ新しくなるというのです。老いとともにいよいよ成長し成熟して生きてゆけるのだというのです。したがって、もしキリストにあって生きているならば、昨年よりも、今年のほうが、みなさんの内なる人は新しくなっているのです。さらに、今年よりも来年のほうが、内なる人はさらに新しくなるのです。
 
  青年とはなんでしょう?青年とは前を見て、新しいことに挑戦する心を持っている人のことです。反対に老人とは、いつも過去を振り返って「ああ、あのころは良かったなあ.今は・・・・」というふうに後ろ向きになった人です。たとえ二十代でも「ああ学生時代はよかったなあ」と後ろばかり見ているならば、すでに老人です。逆に、かりに八十代、九十代でも前を向いて、新しいことにチャレンジする心を持っているならば、その人は青年ということができるでしょう。・・・こんなことを話していると安藤仲市牧師のことを思い出します。安藤先生は実にビジョンの人でした。『四十五十は洟垂れ小僧、男盛りは七八十』『胸に燃えるビジョンがあるかぎり青年である』と先生はおっしゃいました。
 みなさんの日常の中で新しいことにチャレンジするということを考えてみてください。大きなことでなくてもよいのです。このあたりのお年よりはみんな畑仕事をします。実に勤勉です。けれど、畑仕事というのも十年一日のように、毎年毎年同じものを同じ作り方で作っているというだけならば、あまり老化防止にはならないそうです。今まで作ってみたこともないけれど、ズッキーニだのカラーピーマンだの新しいものに挑戦してみるというのがいい。また同じものを作るにしても、新しい作り方に挑戦してみるというのもよいのです。

 さて、使徒パウロは年老いてなお前向きであったというのは、ただ老いないというどころか、日々新しくなっているというのです。それは、キリストを信じる者のからだのなかには、キリストの御霊が住んでいてくださって、内なる人を日々新しくしてくださるからです。これを聖化とか栄光化とかいいますが、キリストに似た者に変えられていくことを意味しているのです。言い換えれば、それは御霊の実が結ばれていくということです。私たちが主の日ごとに賛美をささげてみことばの種を心のうちにまき続け、日々祈りながら、イエス様と交わる生活をしていると、その実がやがて花を咲かせて実を結ぶのです。
「愛,喜び,平安,寛容、親切、善意,誠実,柔和,自制」という御霊の実はさらに豊かに実りうるのです。白髪頭になり、腰が曲がって、外なる人が衰えても、キリストに結ばれているならば、愛において生涯成長してゆくことができるのです。

2.復活の希望

 しかし、もしその希望が死によって断ち切られてしまうものであれば、やはり限界があるでしょう。どんなに、愛、喜び、平安、寛容・・・といった品性の実を実らせても、死んでしまえばおしまいだ、というわけです。ですが、パウロが語る希望は死によって断ち切られてしまうようなちゃちなものではありません。
それは、パウロの希望はキリストにある復活の希望であるからです。生き生きとした復活の希望を、そのうちに抱いていたことです。4:17‐5:5。
 幕屋というのはテントのことです。キャンプに出かけて三四日テント生活は楽しいものですが、もしも来る日も来る日もテントに五年も十年も暮らしていたら、テントはぼろぼろになってくるに違いありません。雨漏りがしたり、破れたりしてきます。もし、テントがぼろぼろになってきたら心細くなってしまいます。けれども、もし、「君のテントがぼろになったなら、立派な本建築の家を用意してあるから、引っ越してくるように。」という確かな約束があるならば、どうでしょう。安心ではありませんか。楽しみではありませんか。テントがもう使い物にならなくなってきたら、今度引っ越す本建築の家はどんな家だろうかと楽しみで楽しみでならなくなるのではないでしょうか。
 私たちの外なる人は、地上の幕屋テントです。これは確かに衰えて、こわれて来ます。不調があって、病院に行っても、「それは年のせいですよ。」としか言ってもらえなくなります。目の具合が悪いので病院に言ったら,老人性視力障害です。耳の具合が悪いので病院に言ったら,老人性聴覚障害。腰が痛くて病院に行ったら,老人性腰痛・・・・。ぼろぼろになっていくテントを見ながら、その後の引越し先がないならば、これは心細くて仕方ない。けれども、イエス様を心のうちに受け入れている人にはちゃんと、この朽ちていく外なる人が壊れたならば、いよいよ神様が天国の本建築へどうぞと招いてくださるという確実な約束があるのです。だから、心強く、その日が楽しみなのです。7‐8節。
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ、肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体のなかにあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」

 主イエス様にお目にかかるかの裁きの日に、主の御座の前に差し出すことができるのは、地上の名声や事業の成功や富などではありません。死のときに、私たちはそれらのものを一つ残らずこの世に置き去りにしてゆかねばなりません。では、その日にさばき主である主の前に差し出すことができるのはなんでしょうか。それはお金でも名声でもなく、ただ愛の実という収穫にほかなりません。ただ愛においてなされたわざのみが、主の御前で評価されます。5:10 「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

結び
 しかも、キリストのうちに生きて行くならば、内なる人の結ぶ愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった実は日々新たにされていくことができるのでした。
使徒パウロが最後の最後まで若く、前向きだった秘訣はここにこそありました。すなわち、この世にあってキリストの生き方を模範とし、さらに死の向こうに輝く復活の希望を持っていたので、死の瞬間まで前向きであったわけです。
 この世にあるものはみな朽ちてしまいます。あなたは朽ちることのない希望をもっているでしょうか。イエス様を信じ、前を向き、天をあおいで、日々うちなる人を新たにしていただきつつ、歩んでまいりましょう。