苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「天の住まいへ」

 クリスチャン歯科医師井出求義(いで・もとのり)氏前夜式説教(9月18日)
 氏は1920年東京に敬虔なクリスチャン夫妻の長男として生まれ、明治学院中等部に学び、日大専科歯科を繰り上げ卒業と同時に、1942年学徒出陣。ジャワ、ビルマベトナムに転戦。戦地の惨憺たる経験を経て、帰還。歯科医師として、祖父の故郷川上村にはいり、以来、村民に仕え、常に平和を訴え続けて来られた。戦後すぐ東映専属オーディション合格されたアコーディオンの名手でもあられた楽しいおじいちゃんだった。
 求義さんは90歳だから、まさに「走るべき道のりを走り終えた」ご生涯だが、遺された車椅子に座った奥様の涙のお顔がつらかった。(なお、ご遺族の許可をいただいて実名で掲載させていただきます。)

      (川上村から八ヶ岳を望む) 

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」コリント人への手紙第二 4章16節-5章10節

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6章23節

1 外なる人は衰えても

 お読みした聖書個所は、初代キリスト教会の宣教師パウロのことばです。この手紙を書いたとき、パウロはすでに老境に達していました。老いるということは、確かに心細いことです。私たちの「外なる人」は衰えます。目がかすみ、段段と足腰が弱り、耳が聞こえにくくなり,声はしわがれてきます。物忘れが激しくなります。不安です。
 パウロは、私たちがこの世にある間住んでいる「外なる人」を幕屋つまりテントに譬えています。夏にキャンプをしてテント暮らしを二三日するのは新鮮で楽しいでしょう。でも、一ヶ月、二ヶ月、一年もすればテントはボロボロになり、雨漏りがするでしょう。それでも二年も三年も5年も十年もボロボロになってきたテントに住まっていなければならないとしたら、こんなに心細いことはないでしょう。
 求義さんと私の出会いは今から14年ほど前、まだ私がこの地に来て伝道するようになって三年目のことです。求義さんはダンディな江戸っ子らしく、茶系の格子のジャケットをお召しになって、おしゃれにアスコットタイをしてこられました。そして、いろいろなことを話されました、戦争のこと、平和のこと、村の将来のことなど。その後、折々お目にかかり、川上村御所平の家庭集会で一緒に讃美歌を歌い聖書を学ぶようになりました。奥様とおそろいのスカーフをなさって。でも、ここ2年ほどは健康を害されて、徐々に弱ってこられました。
 弱られる前のある日、私を訪ねてこられた求義さんは、「水草先生。私の葬式をしてください。お願いします!」と大きな声でおっしゃいました。この世を去る日が近づいていることを、はっきりと自覚されて、クリスチャンとしての最後の証の備えを始められたのでした。人はなかなか自分の死のために具体的に準備ができないものです。けれども、イエス・キリストを信じていた求義さんは、死の問題に解決をもっていらっしゃったので、死を恐れる必要がなかったからです。

2.勇気の秘訣――内なる人は日々新たに
 求義さんは笑顔の素敵な方でした。飾られている数々の写真を見ても、実にいい笑顔をしていらっしゃいます。戦地の経験から、戦争は決してしてはならない「たとえ殺されても決して殺してはならない」という信念を披瀝されました。人の顔を恐れない、神のみを畏れる勇気ある方でした。9年前、イラク戦争の折りには、ブッシュに追随する小泉首相に対して憤られ、当時民主党岡田克也代表に反戦平和を訴えられたとご連絡くださいました。また、信濃毎日新聞反戦平和の記事を載せていただいた、その報告書をもくださいました。たしかに外なる人は衰えてこられたのですが、内側には日々新たにされるものをもっていらっしゃるのでした。
 肉体が衰え、死が近づくということは、私たちにとってたしかに心細いことです。けれども、使徒パウロは言うのです。「けれども、私たちは勇気を失いません。」年老いても勇気を失わない秘訣とはなんなのでしょうか。二つの秘訣があります。
 一つは、「外なる人」は衰えても「内なる人は日々新たにされているからです。」とあります。足腰が弱り、しわがより、耳が遠くなり目がかすんで、また、記憶もさだかでなくなっていっても、新しくされていく「内なる人」があるのです。
 若いとき、勉強をしたり、運動をしたり、仕事をしたりして、一生懸命により強くなろう、より豊かになろう、より賢くなろうと努力します。そうした若い日の努力はよいことでしょう。けれども、歳をとっていくにつれて、どんなにがんばっても、かつて誇りとしていた、肉体の力や美貌や記憶力は衰えます。またこういうものにともなうこの世の名誉などいろいろなものもなくなります。そういう時、もし誇りとするものが、「外なる人」だけであったら、どれほど心細いことでしょう。
 けれども、「外なる人」が衰えても、もし日々新たにされる「内なる人」が豊かであれば、私たちは勇気を失わないでしょう。しかも、この「内なる人」は、「外なる人」が朽ちてなくなっても永遠に続くのです。
 「内なる人」とはなんでしょうか?それは、私たちの内側の、「信仰と希望と愛」を宿す場、心です。私たちが心のうちに、イエス・キリストを信じる信仰を宿しているならば、外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされます。私たちが、イエスに希望を置いているならば、外なる人は衰えても内なる人は日々あらたにされます。私たちがイエスを愛して、愛をもって隣人を愛する生活をしているならば、私たちは日々新しくされます。パウロが持っていた秘訣、求義さんの秘訣はこれでした。

 「人には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています」。その死後の裁きのとき、私たちが神様の前に持っていけるものとはなんでしょうか。お金や家屋敷は持っていくことができません。それは外なる人に属するものです。肉体の力、美貌を持っていけるでしょうか?いいえ持っていくことはできません。それも外なる人に属するものです。 
 では、神様の前にまで持っていけるものとは何でしょうか。それは「信仰と希望と愛」です。求義さんは、敬虔なクリスチャンのお父様にその名をいただいてクリスチャンとなり、戦争やいろんなところを通られましたが、キリストへの信仰をもち、キリストに希望を持って生きてこられました。
 そして、戦地から戻ると、川上村における歯科医として、村民のみなさんに仕えて来られました。中学校、小学校の校医として子どもたちの歯を診療し、またご自分がすでにお歳を召していらっしゃるのに、デイケアのスタッフと一緒に、病院に出かけることもできない寝たきりのお年寄りのために往診をして歯の治療をしてこられました。息子さんにうかがえば、「赤ひげ」みたいに貧しい人からは、報酬も受けずに喜んで治療をなさることもしばしばだったそうです。村で求義さんのお世話にならなかった人はほとんどいないのではないでしょうか。地上の銀行や蔵の中に自分のために蓄えたものは、天に持ってゆくことはできません。それらは地上で朽ちていくのです。しかし、愛によって、隣人のために注いだものは天の宝となって蓄えられているのです。
 イエス様を信じ、イエスに希望を持ち、隣人に愛をもって歯科医としての生涯を送られた求義さんは、死後、神のさばきを恐れる必要がありませんでした。

3.勇気の秘訣  その2―――天にある永遠の家

 年老いて外なる人が衰えても、勇気を失わない秘訣の二つ目は、天にある永遠の家が約束されていることです。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
 神様は、私たちがこの地上に生きていくために、このテントとしての「外なる人」を貸してくださいました。ここを読むと、不思議なことに使徒パウロはそのテントが年々ボロボロになっていくのをむしろ楽しみにしているようです。なぜでしょう。それは、「テントがいよいよ壊れてしまったら、本建築の屋敷を君に用意してあるから引っ越しておいで。」とイエス・キリスト様が約束していてくださるからなのです。
 この外なる人が尽きる時に、イエス様は今度は決して壊れることのない本建築の永遠のからだ、復活のからだを天国に用意していてくださったのです。イエス様は、「そろそろもうテントはぼろっちくなったねえ。さあ、今度はおまえのために用意しておいた本建築の家に引っ越していらっしゃい。」とおっしゃいました。そうして、求義さんは天の住まいに引っ越して行かれたのです。「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」(詩篇73:26)
 求義さんの霊は、今すでにその辺をさまよってなどいません。求義さんは今、天の御国で、天にいますイエスの御許で欣喜雀躍なさっています。地上にある私たちが求義さんの死後については、何も心配する必要がありません。むしろ、求義さんのほうが、みなさんのことを心配なさっているでしょう。

 パスカルが言いました。「人を葬る上でもっとも大切なことは、派手で豪華な葬儀をすることではありません。葬りにおいてもっとも大切なことは、故人がもし生きていたら『こんなふうに生きて欲しい』と望んでいたような生き方を、残された者たちがすることです。」
 今、イエス様のみもとにすでにいるMさんが語ることができたら、きっと私たちに言うでしょう。「あなたもイエスを信じて、神との関係をただし、イエスに朽ちぬ希望をもつように。そして、地上に朽ちていく宝を積むのではなく、朽ちない宝を天に積むために、隣人を愛することに生きてください。」と。