苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

『存在の喜び』復刊


 宮村武夫先生の『存在の喜び』が、著作集の一冊としてついに復刊されました。「先生の著作の中で、どれか一冊」と問われたら、迷わずこの本を挙げます。それは、筆者にとって、この書との出会いは決定的なことだったからです。筆者がどこかで証をすると、必ずこの本にふれるので、「『存在の喜び』はどこで手に入りますか?」と問われますが、長らく絶版になっていました。
 「存在の喜び」ということばは、「自分が生きていることがうれしい」という意味に誤解されてしまいがちなのです。ほんとうはそうではなく、この「存在の喜び」の「の」は、対格的属格の「の」なのです。つまり、「存在を喜ぶ喜び」ということなのです。神が、あなたの存在を喜んでいてくださる、という事実の発見なのです。
 
 本書は教文館で手に入ります。

<宮村武夫著作刊行基金振込先>

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 郵便振替口座名 加入者名 宮村武夫著作刊行委員会


 以前、書いた「存在の喜び」との出会いの記録です。再録ですが、よろしかったらご一読ください。

   「存在の喜び」との出会い


 食堂の窓から見える校庭の木々がもみじして、穏やかな明るい日差しのなか、その葉を散らし始めていた。「水草君はまるで『存在の喜び』のセールスマンだね。」友人たちがそう言って笑った。「存在の喜びのセールスマン」。筆者は、この称号がいたく気に入ってしまった。もう二十数年前、国立にあった東京キリスト教学園の昼食時の食堂でのことである。当時は、東京基督教短大TCCと東京基督神学校キリシンと共立基督教研究所が国立キャンパスに同居し始めて三年目のことであったから、私が食堂で『存在の喜び』を話題にしていた相手はキリシンとTCCの友人たちである。
『存在の喜び』とは宮村武夫先生が仕えておられた新約教団青梅キリスト教会付属もみの木幼児園の十周年記念文集であり、当時出版されたばかりであった。キリシン一年生であった私は青梅キリスト教会に奉仕神学生として通っていたのである。

出会いに先立って
「宮村武夫先生」という名を知ったのは、その半年前、大学時代にお世話になった朝岡茂牧師を通してであった。朝岡先生は日本同盟基督教団土浦めぐみ教会の牧師であり、宮村先生のJCC時代の少し先輩にあたった。大学入学の少し前、神戸で回心した私は、進学のため茨城県に転じて土浦めぐみ教会に通うようになった。翌一九七九年一月に洗礼を受けてまもなく、自分の罪の重さとキリストの十字架による罪の赦しの恵みの偉大さに圧倒されて、「もはや自分のためにこの人生を生きたのでは申し訳ないので、すべてを主におささげします」と決心して祈らざるをえない体験をした。その後、朝岡先生は、「献身者は牧師の右腕左腕である」という方針で私を訓育してくださった。先生は、「いのちがけ」というのが口癖の、義理人情に厚く、燃え盛る火の玉のような牧師であり、同時に、信仰における知的側面・神学教育のたいせつさをわきまえた真理の前に謙虚な方でもあられた。
献身者という自覚をもっての大学時代の信仰生活は充実していた。主の日にはだれよりも早く会堂に行き、教会学校の奉仕では、「この子たちのためにはこの命も」と思い込んでいた。大学生としては早朝から深夜までひたすらわけのわからん哲学書と格闘したが、疲れを知らなかった。赦されるはずのない罪人が罪を赦していただけたことへの感激と、「神の栄光をあらわすために」という若い使命感に満ちていたのだった。主の奴隷として、ひたすら主のご栄光のために自分を捧げ尽くすことのみを求めていた。
しかし、振り返ってみると、そうしたいわゆる献身者としての構えはいつしか偏狭な完全主義に傾いていったように思う。教会学校における奉仕の姿勢にかんして、時に同僚をきびしく面責したりすることがあったのは、そのせいであった。大学卒業と同時に神学校進学を控えていた三月のある日、私は牧師宅の応接間で朝岡先生から厳しく叱責を受けることになった。
「君は傲慢だ。君のまわりには草も生えない。君のような奴は、ほかに任せられる人がいないから、宮村先生に頼むことにした。」
朝岡先生は怒りのあまり顔が青白くなっておられた。こちらが叱られながらも『先生、心臓大丈夫かなあ』と内心危ぶむほどであった。私にとって、朝岡先生にこれほど叱られたのは前にも後にも一回きりの貴重な経験だったと今では思えるが、そのときは大きな衝撃であり深い痛手となった。
「神様は、周りには草も生えないような人間を牧師にして、なにをさせようというのだろう。そんな人間を伝道者としてお召しになっても、神様にご迷惑をおかけするだけではないか。自分は洗礼を受け、献身を表明してから三年間いったい一生懸命何をしてきたのだろう。『神の栄光のために』と励んできたことは、なにもかもが無駄だったし、なにもかもが罪だったのかもしれない。」そして思った、「それにしても、春からご指導いただく宮村先生とは、どんな恐ろしい先生なのだろう。」と。
「さあお昼を食べて行きなさい。」
集中砲火を受けて、こっちはぺちゃんこになっていたが、朝岡先生はさらりとおっしゃった。食卓につくと、牧師夫人は私の顔を見て、すべてを察していらしたようである。あのころ、この牧師館の食卓でいったい何度ごはんを食べたか数え切れない。私は、そのたびに牧師夫人や子どもたちのおかずを食べてしまっていることを自覚もしないでいた愚かなお坊ちゃんにすぎなかった。
朝岡先生は食卓で宮村先生のことを紹介なさった。宮村先生はJCCの後輩であり、JCC卒業後、米国に留学し、ゴードン神学校、ハーバード大学でまで学ばれた新約学者なのだということだった。「これからの福音主義の神学界をリードすべき三人のうちのひとりであると私は考えている」ともおっしゃった。とにかく宮村先生というのは、なんだかものすごく優秀な人で、いかめしい神学者で、もしかすると朝岡先生に勝るとも劣らず恐ろしいお方なのだろうかと想像した。この春から、その宮村先生の仕える教会の奉仕神学生となり、神学校でも教えていただくことになるというのだから、背筋が伸びる思いだった。朝岡先生は言われた。「神学校というのは軍隊で言えば士官学校だ。いのちがけで勉強し、いのちがけで奉仕をしなさい。」
 その数日後、神戸に住む母から電話があった。声が震えている。
「お父さんが検査の結果、食道ガンだと言われたんよ。」
「ガン。で、程度は?」
「去年の夏から調子わるくてずっと検査していたのに、原因がわからなくて、今回わかったら、お医者さんはもう手遅れで、半年くらいの命やて言うんよ。」
四月十日に手術をするが、それは延命措置にすぎないとのことだった。父は母とともに神戸の教会で洗礼を受けて三年間が経っていた。当時、医者は患者にガンの告知をしないのが一般的で、家族はそのことを胸にかかえて死に行く人の看病をするものだった。父は洗礼を受けてのち忠実に教会生活はしていたものの、信仰が強いという人ではなかった。たとえばタバコをやめるべきだと本人は思いながら、何度も禁煙をするというありさまだったし、聖書の記述のところどころについても「ほんまかいな」と疑いめいたことを口にすることもあった。
母は父にとって恋女房で、信仰生活については父は母に支えられているという面が大きいように思えた。医者がいう「半年間」は、母にとってたいへん厳しい半年間となるだろうと予想された。できるかぎり帰省して、母の重荷を少しでも軽くしてあげなければならない。父には確信をもって天国に帰ることができるように導きたい。「神学校は軍隊でいえば士官学校だ。」と朝岡先生から言い渡されていた私にとっては、むずかしい状況となってしまった。

出会い―――もっとも大切な奉仕
三月下旬、神学校の入学試験に出かけた。朝早くからの試験ということで、いっしょに受験することになった白石剛史兄とともに前日から神学校の寮に泊めていただいた。その夜は緊張のせいか眠気が来ないので、腕立て伏せをしたら、いっそう眼がさえてしまったことを記憶している。
翌日、筆記試験を終えてから、面接試験となった。ロの字に配置された長テーブルの三方に座った教授会の先生方八名ほどが面接をしてくださった。左三番目に宮村先生がおられ、自己紹介なさった。豊かな真っ黒な髪と、分厚いめがね、分厚い胸、そして「宮村です。」とおっしゃった鼻声が印象的だった。まず救いの証、献身の証をしたあと、先生方お一人一人がなにやら質問をなさった。そのとき、宮村先生が何を質問なさったかは残念ながらすべて忘れてしまった。忘れたのは、質問のねらいが理解できなかったせいであろう。ただ、この先生が「ほかのだれにも任せられない」ような傲慢な自分をあえて任せようと、朝岡先生が決めた先生なんだなあ、何を考えていらっしゃるかわからない先生だなあという印象だった。
 神学校入学が決まり、春休みのあいだに青梅キリスト教会にごあいさつに出かけ、宮村先生と執事の方たちにお会いすることになった。私は気負って質問をした。
「神学生として、何の奉仕をしましょうか。トイレ掃除からしましょうか。」
 執事さんたちは気負っている私を見てニコニコされていた。宮村先生はしばらく沈黙なさってから、眼鏡の奥からじっと私を見て、熱を込めておっしゃった。
水草君。神学生にとって何よりも尊い奉仕は、あれをするこれをするということではなく、礼拝者としてそこに存在するということです。神さまは、そのことを何よりも喜んでくださいます。」
 「はい。」と応えたものの、実は先生が言わんとされることが、そのときの私にはあまりよくわからなかったのである。礼拝者としてそこに存在するというのはどういうことだろうという問いは、このあと半年間の私の宿題となった。

恐れ
 神学校では聖書語学をはじめとしてむずかしい学びの生活が始まり、教会では奉仕神学生として教会学校やいろいろ楽しい経験をさせていただいた。多忙ではあったけれども、充実した日々であった。だが私のなかにはひとつの恐れがあった。
神学校に入る前、朝岡茂牧師は私に「神学校というのは軍隊でいえば士官学校だ。そのつもりで勉学と奉仕にいのちがけで励みなさい。」とおっしゃった。ところが先に触れたように、実家の父が四月十日に食道ガンの手術をしたために、四月にはいるやいなや、私は看病のため帰省をしなければならなくなってしまった。奉仕神学生として二度目の主の日に欠席である。
その後、父の病状は、末期ガンで延命手術をした場合に典型的な経過をたどることになる。術後、いったんよくなったかに見えて、ほんのしばらく帰宅もゆるされたが、まもなく再び坂道を転がり落ちるように悪化していくのである。病名を告知されていない父は、いったん上向いたかに見えた病状が再び重くなってくると当然、不安にもなり、「本当によくなるのか、こんなにしんどくてはたまらない、神様が遠くに行かれたような気がする」といったことばまで周囲にもらすようになった。こうした父のようすを母から聞いて祈っていた私は、父は信仰を失って滅びてしまうのではないかと気が気ではなかった。日々父に付き添っている母の看病疲れも気遣われたから、折々帰省しないではいられなかった。
しかし、私の心中には責めがあった。「おまえはそれでも神学生か。召集された兵士が、親が病気だからといって帰省などするだろうか。福音のために親も子も捨てるのが主のしもべではないのか。」と。そして、宮村先生はいったいこんな自分の行動をどのように見ていらっしゃるのだろうかと評価を恐れる気持ちがあった。そのころ私は、まだ宮村先生の思想を理解することからほど遠かったのである。

説教の代読――人格は目的として
 奉仕神学生になって、主の日の朝は、青梅キリスト教会小作集会所にTCCの神学生、坂本美和子さんと通うことになった。青梅キリスト教会出身の木村恵子さんと宮坂さふみさんもTCC神学生だった。当時、青梅キリスト教会は隣町の小作に牧師の家をもって、そこで開拓伝道を始めたところだった。私は朝の教会学校の礼拝と主日朝礼拝は小作でささげ、昼食から青梅の会堂に移り、いろいろな兄弟姉妹との交わりに加えていただいた。時には病気の方を訪ねて家庭集会にも出かけることもあった。夕礼拝には宮村先生がウェストミンスター信仰告白の講解をしてくださった。そのあと、青年たちみなで毎週小作の宮村先生宅で夕食をおなかいっぱいごちそうになった。さらに、宮村先生は信徒対象に玉川直重さんのテキストをもちいてギリシャ語の手ほどきをしてくださった。
 水曜日の祈祷会には宮村先生はレビ記の講解をしてくださった。私にとってはそれまで読むのが苦行でしかなかったレビ記が、いのちあることばとして、人生を導き教会を生かすことばとして語られるのが大きな魅力だった。
 主日朝の礼拝では使徒の働きが連続講解されていた。宮村先生は青梅キリスト教会と小作集会で交互に礼拝説教をなさっていて、先生がいらっしゃらないほうの礼拝では木村執事が宮村先生の説教原稿を代読するという奉仕をなさっていた。代読という礼拝説教がありうるのだということを私はこのとき初めて経験した。代読ではあったが、木村執事の取り次がれる説教は生き生きとしていて、ときに宮村先生の語り口よりも力強くさえあった。
宮村先生の説教は、ふしぎである。連続講解をうかがっている一回一回は、その場ではさほど感動しないことが多い。テキストの構造を云々なさったりして講義調で、エレガントな文学的な表現を用いられるわけでもない。正直言うと、むしろあの鼻声の語り口調がときどき眠りを誘うこともあった。私の後に奉仕神学生として青梅に行った友人はもっと重症で、一度、先生から相談されたことがある。「○○君は、毎週礼拝のとき熟睡しているんです。家内は、いつ彼が椅子から落っこちるかとはらはらしています。それで、もしかしたら何か病気じゃないかと家内が心配して、水草君に聞いてみたらどうかというので・・・。」ということだった。○○君は病気ではなかった。ただ神学校の勉強がきつくて睡眠時間が足りないところに、先生の声が心地よすぎたのだろう。ところが私自身経験したことなのだが、宮村先生の聖書講解は、聞いたそのときどきは特別な思いがしなくても、これを聴き続けて半年ほどたつと、ものの見え方、考え方、生き方にあきらかな根本的変化が生じてくるのである。熟睡している場合の睡眠学習効果の有無は定かでないが、この感化力はいったいなんなのだろうか。
 さて、私が小作集会に通い始めて三ヶ月ほど経ったとき、宮村先生はおっしゃった。
「君に説教の代読の奉仕をしてもらおうと思っています。けれども、わたしは決して、君を私の説教を伝えるための手段にしたいとは思っていません。人格は手段にはしてはならず、つねに目的として扱うべきからです。」
 その言い方はご自分に言い聞かせるような調子だった。このことばの意味も、言われた当初、私には十分には理解できなかった。というのは、罪赦された罪人にすぎない自分は、神様の奴隷であり、道具として用いていただけるならば、それで十分だというふうな考えだったからである。しかし、宮村先生は、この説教代読にあたる奉仕者を単なるテープレコーダーとして扱うことにならないために、説教原稿を二週間前には渡してくださって、代読者からの質問を受けたりして、代読者が単なる読み手ではなく、十分に自分の心からのことばとしてその奉仕をすることができるように配慮してくださったのである。
 「人格の内にある人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱うことのないよう行為しなさい。」というのは哲学者カントのことばであるが、主への奉仕という名の下に、神がご自身のかたちとして造られた人間を非人格的にあつかう危険がありがちなことを先生は意識していらしたのであろう。
 付け加えておきたいことだが、後々、宮村先生の新約神学や聖書解釈学を学ぶなかでわかってきたことは、説教の代読というのは単に複数の集会を同時に可能とするため、やむをえない手段として取られた方法ではなかったということである。むしろ先生の新約学者としての確信に基づいた方法だったのだと私は理解している。新約聖書に含まれる使徒たちの多くの書簡は、初代キリスト教会の時代、各地の教会に回覧され礼拝で朗読され、神のことばとして聴かれ、そして実を結んだという事実に基づいている方法なのである。むろん使徒本人が神のことばを生でとりつぐのを聞くことができるというのは、幸いなことであったけれども、たとえばパウロについていえば、彼の「手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱弱しく、その話しぶりはなっていな」かったとさえ言われている(Ⅱコリント10:10)。説教代読のほうが、むしろ宣教において効果的でさえある場合もあったというのである。

父の死と『存在の喜び』
 男子寮では短パンにランニング姿の神学生たちが、うなぎの寝床のような寮の部屋で、ギリシャ語やヘブル語に呻吟する季節になった。夏休み、なるべく看病する母の重荷を代わってやりたいと思って帰省した。最初、父の食道に巣食ったガン細胞は、切除にもかかわらず全身に急速に転移がひろがっていた。父はひたひたと迫りくる死の影を感じて、「この病気はよくならんような気がする」というようなことを口にするようになっていたが、ガンということばを口から出すことは、死に対する恐怖のゆえか、あるいは看病する母へのせめてもの気遣いのためか、控えていた。
ガンは容赦なく父のからだを蝕んでやがて肝臓あたりが硬くはれあがるようになってきた。不平というのではなく、「どうにもならずしんどくてだるいなあ」とよく父は言っていた。ベッドに起き上がるのも一苦労という状態になっていたが、牧師が訪ねてくださると、力をふりしぼってベッドに起き上がって、みことばの勧めを静かに聞いている姿が印象に残っている。「今ぼくの信仰は弱っていますが、必ず立ち直ります」と話す父は、謙虚で正直だった。
夏休みが終わって神学校が再開したので、私は東京に戻った。神戸の父母を気遣いながらも、神学生としての学びは充実しており、また青梅キリスト教会と小作集会での歩みのなかで、「一度にすべてではなく」少しずつ私は内側から変えられてきていた。あの献身者としての気負いと、それにともなう恐れが消えうせて、内側に主に仕える喜びが静かに湧くようになっていた。だが、その変化がいったいどういうことを意味するのか、必ずしも十分には理解することができないでいたのである。
 十月十日、父は天に召された。五十三歳だった。容態急変のしらせを受けて、私はその三日前に帰省していた。父は、召される前夜、母に向かって、「きみと結婚して幸せだった。こうしてキリストを信じられたから。帰ろう。帰ろう。」ということばを遺して去っていった。私は父に主イエスへの確信が回復されたことと、恋女房の母に父らしいことばを遺していったことを知って、平安のなかで葬儀を終えて神学校に戻ることができた。
 それから一ヶ月後、青梅の山々が色づき始めたころ、宮村先生が白に黄緑の帯をかけたような素朴なデザインの一冊の本を差し出された。表紙に『存在の喜び――もみの木の十年』としるされている。
 「もみの木幼児園の十年間の記録文集です。『存在の喜び』の『の』は、主格的属格の『の』でなく、目的格的属格の『の』なんです。つまり、存在が喜ぶのではなくて、存在を喜ぶ喜びという意味です。」
 と、先生はいかにも新約学者らしい表現で書名の解説をしてくださった。私は、宝物をいただくような思いで受け取った。教会からの帰りの電車で開こうかと思ったが、もったいなくて、神学校の寮の一室にもどってから読み始めた。読み進むにつれて、この春から先生が折々の語らいの中で口にされたことばで、私にとっては謎であったいくつものことばに掛けられていたベールがはらりはらりと落ちていくようだった。主イエスは「からだのあかりは目です」とおっしゃったが、目がちがえば、こんなにも見えてくる具体的な日常世界はちがうのかと驚いた。
いや、今読み返しても驚いてしまうのである。春夏秋冬を通じて日々なされる幼児園の具体的な暗唱聖句・お弁当・お昼寝といった営み、そして季節ごとに織り込まれる入園式、遠足、運動会、卒園式といった行事のなかで、神の摂理の下に生きるとはどれほど喜ばしく味わい深いことなのかということが考えられ具体的に展開されているのである。
 宮村先生については、敬愛をこめてなのだが、先生は理想主義者であるとか、先生の足は地面から浮き上がっていて頭が雲の上に出ているとかいう見方をするむきがある。私もそういうことをときどきおもしろがって言ってきた。けれども、それは皮相的な見方であって、事実は、宮村先生においては、聖書に根ざしたことばが日常の生活を照らして輝かせたり、あるいはことばが現実のうちに実を結んでいくのである。永遠世界のことばが、空虚な観念にとどまらずに、いのちあることばとして、時の中に受肉していくのである。それは、青梅キリスト教会の歩みにおいてそうであったし、沖縄に転じられてからの先生の歩みにおいてもそうであった。このことを、今回『存在の喜び――もみの木の十年』を読み返してみて改めて実感して、相変わらずの観念的で地に足のつかないきらいのある自分は、先生の歩みにははるかに及ばないと思わされているのである。
それはさておき、最初に『存在の喜び』を読み進めて、次のくだりに来たとき、私は胸が熱くなって、鼻の奥がツーンとなって、しばらく前に進めなくなってしまった。
「子どもについてさまざまな不安や焦りを抱く保護者と接する度毎に私の心に響く思いは、いつもこの一事です。大部分のことは、過度に心配する必要はない。問題があるとすれば、本来それ程まで心配しなくてもよいことをあまりに過度に心配し、問題でないことを不安な一定しない思いからの取り扱い故に問題としてしまう危険です。心配しなくともよいことを過度に心配するあまり、本当に心配しなければならない数少ないことを軽視したり、無視してしまう、誠に残念です。
 では、数少ない心配すべき事柄とはどんなことでしょうか。
 園児にとって、何が無くとも、これだけは是非必要なこと、それは自らの存在が喜ばれている確認です。両親が自分の存在を喜んでいてくれる。園でも、教師や友人たちが自分の存在を喜び受け入れていてくれる。自分の存在が少なくとも或る人々に心から喜ばれているとの自覚は、必要不可欠なものだ。これこそ、この十年深まり続けてきた確信です。何が出来るか、何の役に立つかと機能の面からのみ判断されるのでなく、ただそこに存在していること自体が喜ばれ重んぜられる。この経験なくして幼児は、いや人間は真に人間として生きることは出来ないのではないでしょうか。」(四八、四九頁)
最初に青梅キリスト教会を訪れたとき、何の奉仕をしましょうかと勢い込む私に対して先生がおっしゃったことばが甦ってきた。
「神学生にとって何よりも尊い奉仕は、あれをするこれをするということではなくて、礼拝者としてそこに存在するということです。神さまは、そのことを何よりも喜んでくださいます。」
 あの時にはわからなかったけれど、今ははっきりとわかった。神は、驚くべきことに、この罪深い私のような者の存在を喜んでいてくださる。なにができるか、なんの役に立つかということ以前に、わたしがここにいるということを喜んでいてくださるということが、恐怖の雲が晴れてはっきりとわかったのである。主イエスを信じてまもなく献身を表明し、主の奴隷として自分の感情も意志も知性も捧げ尽くして生きたいと願ってきた。主が死ねと言われれば、「はい」と死ねるようなしもべになりたいと願ってきた。そのこと自体は間違いではなかったのかもしれないが、いつのまにか自分の奉仕のわざをもって自分を支えようとする律法主義的な傾向と、そういう自分を評価する神の目と人の目への恐れが私を縛っていたのであった。けれども、このとき、神は私の働きのいかんにかかわらず、私の存在そのものを喜んでいてくださるのだということに気づかされたのだった。
 この出来事は、私にとっては大きな信仰の転機となった。腹の底から湧き上がってくる喜びを抑えることができず、私は「存在の喜びのセールスマン」となってしまった。いったい何冊の『存在の喜び』を友人たちに買ってもらったかは記録がないのだが、神学校の食堂でもチャペルでもどこででも私は存在の喜びをあかししないではいられなかった。
神学校最終学年、私は土浦めぐみ教会に戻った。朝岡茂先生はガンとの戦いの中で牧会をしておられた。土浦に戻って三ヶ月ほどたったとき、先生はある日、病床を訪ねた私におっしゃった。「君は成長した。」嬉しいお言葉だった。朝岡先生は私の魂に巣食う律法主義を見抜かれて、その解決のためには私をご自分のもとで訓練するよりも、親友の宮村先生に託すべきだと判断なさったのであろうと思う。先生たちお二人は、タイプの異なる器でいらっしゃるが、たがいに深く尊敬し合う友でいらっしゃった。
 
宮村節「一度にすべてではなく」
 神学生たちの間で、しばしば「宮村節」ということばがささやかれた。すでに申し上げた「存在の喜び」、「人格は手段としてはならない」、「ことばの真実」それから「新しい天と新しい地」などは宮村節の代表格であろう。それぞれに味わわれるべきことばであるが、宮村先生の著作と歩みを理解する上で役に立つこととして、筆者がここで特に取り上げておきたいのは、「一度にすべてではなく」というフレーズである。これは「地域に根ざし、地域を超える」「体験でなく経験へと深まって」「マンネリを恐れず」といった表現と深い連関がある。この表現で、宮村先生は私たちに何を教えようとなさるのだろうか。現在の私の理解するかぎりにすぎないが、ここに記してみたい。
 宮村先生がしばしば口にされる「一度にすべてではなく」というのは、本書に収録された「宣教・説教と組織神学」の結論部分でも引用されているヘブル書の冒頭のことばから来ている。
「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」(ヘブル一1,2)
 聖書における神の啓示が、一度に聖書全巻を明らかにするのではなく、神のお定めになった時の中でさまざまな人々を通してさまざまな方法で徐々になされ、最後にイエス・キリストにあって完成へと導かれた。こうした啓示の方法は、啓示というわざにおいてのみならず、神の創造と摂理のわざ全体を貫いている原則であり、神に従う民がわきまえるべき原則である。このことを宮村先生は「一度にすべてではなく」と表現なさった。
 聖書解釈にこのことを適用するとき、「すべて」とは救済史全体を意味している。その「全体」のなかでこそ「部分」に意味がある。宮村先生は論文でも学会でも、しばしば全体的・救済史的視点なしに各書や各章や各節を釈義しようとすることは、聖書主義ではなく聖句主義にすぎないと断じて、救済史神学の創始者エイレナイオスを引用しながら、真の聖書主義を力説なさってきた。エイレナイオスによれば、歴史とは聖なる牧者である神が創造から終末の目的にいたるまで導く過程なのである。
さて、宮村先生の理想主義的に聞こえることばが永遠の観念世界に留まらず、もみの木幼児園の歩みや、沖縄における教会やキャンプ場の歩みという、時の中に具体的に実を結んできたのは、先生が「すべて」を強調しながらも同時に、「一度にすべてではなく」という原則を常に自覚してこられたからである。かりに理想として掲げられたものが千であり、現実が一でしかないと、ほとんどの人はそこに「理想と現実のギャップ」を見て前に進もうという意欲そのものを失ってしまうであろう。けれども、宮村先生は「一度にすべてではなく」という神の摂理の原則をわきまえておられたから、掲げられた理想が千であろうと万であろうとも失望することなく、今日の一歩を踏み出し、歩み続ける勇気と忍耐を保ち続け、私たちを励まし続けることがおできになるのである。そういえば、神学生時代、同室の先輩が「理想の対義語は現実ではなく、現状なのだ。」と語っていたことを思い出す。到達すべき理想を見上げながら現状から一歩踏み出す勇気。この勇気を「一度にすべてではなく」という原則は与えてくれる。
「一度にすべてではなく」という原則が、教会の宣教のわざに適用されるとき、「地域に根ざし地域を超える」ということになるであろう。教会において「すべて」ということが意味する理想は「教会の公同性」ということである。だが公同教会の理想のみを唱えていても、そこには内実ある教会の公同性は生まれては来ない。地域教会が、その地域に徹底的に根ざして、苦闘しながら宣教のわざを展開していくとき、初めて地域と時代を超えて公同の教会に共通する課題を見出す。そして、苦闘はしていても、ともに戦う戦友たちが地域を超えて時代を超えているのだという喜びに目覚めることになる。ここに、内実のある公同性が獲得されるということである。・・・とは書いたが、なお筆者には十分わかっていないので舌足らずであるが、今遣わされた信州の地での伝道に奮闘していれば、いつか筆者にも十分に理解し表現できる日が来るのかもしれない。
 また、「一度にすべてではなく」という原則が個人の生に適用されるとき、「体験が深められて経験となる」ということになる。宮村先生ご自身が明かされるように、体験と経験という語の独特な用い方は森有正の思想と用語法から来ている。私は神学生時代、先生に薦められて森有正の全集とその他の著作を手に入れて一時期読みふけったことがある。理解のために森有正のことばをふたつばかり「ひとつの『経験』」というエッセーから引用しておこう。
「私の生活の中にある出合いがあって、それが人であろうと、事件であろうと、その出合いが私の中に新しい生活の次元を開いていく、そして生活の意味自体が変化していく。それを私は『経験』と呼ぶのであって、記憶の中にただ刻みつけられ、年月とともに消磨して行くもの、あるいは、自分の生活の一部面の参考となるに止まって、そこに新しい次元を展くに到らないもの、それを私は『体験』と呼ぶのである。」
「一つの『体験』がその人と一体となり、その人の中核となり、その人の成長に広大な新しい次元が生まれるまでには時間の経過が必要である。この時間の経過に耐えるとき、それは経験となる。」
 体験が経験にいたるには、「マンネリを恐れず」である。荒野のイスラエルは、「毎日マナしかないではないか」とマンネリを嫌ったことによって罪に陥った。毎日、毎週、毎月、毎年、同じことを一見繰り返しているようでありながら、神の摂理に導かれて「時」は創造から「新しい天と新しい地」の実現に向かって一直線に前進している。だから、マンネリを恐れず、今日も明日もひたむきに前進する。こうした営みを通してえられるものは、個人的な体験のレベルを超えて普遍性を持つ経験なのである。二十七年前、宮村先生に出会って知った喜びの体験は、時を経てひとつの経験に熟しつつあるということが許されるだろうか。