はじめに
(2021年11月23日、国内開拓伝道会セミナーでお話してきました。)
数か月前、嵐時雄先生からお電話があり、KDKセミナーで話をするようにというご依頼をいただきました。その昔、KDKにも嵐先生にも恩義がありますから、これは受けなければならないと思ってお引き受けした次第です。けれども、お引き受けしてから、二つ目の話「教会の増殖」は話せないと思いました。私にはそういう実績がないからです。伝道した南佐久郡(人口25000人)が夏場、車で南北(佐久穂町―川上村)一時間半ほどかかる、東京23区より少し広いサイズであり、かつ冬の運転が危険でもある地域ですから、将来的には枝教会の増殖ということも念頭において、家庭集会を川上村、南牧村、南相木村で十数年続けましたが、それらは伝道のための枝に留まり、教会として増殖するというものにはなりえませんでした。
そこで全体テーマは「実を結ぶ開拓伝道」として、一回目は「伝道者の形成」ということ、二回目は「伝道と教会形成」という話でもいいですかと、委員の先生方に申し上げたら、「それでいい」と許可をいただいたので、そういう話をします。
開拓伝道のノウハウ本はいくつか読みましたが、私の場合は、あまり役に立ちませんでした。なぜかと考えてみたら、それぞれの置かれた条件が違うからです。まず、伝道者が遣わされた地域が人口増減・文化・歴史・経済状況・住んでいる人々の年齢層・時代状況などことごとく異なっているわけです。そして何より伝道者自身の年齢・経験・性格・賜物、つまりキャラクターがすべて違います。
では、これまで開拓伝道に関するお話をいくつか聴いてみて、何が一番参考になったかというと、開拓伝道者自身の伝道者としての信仰と人格の形成についてうかがったことと、その伝道者が理解する伝道と教会形成の原則でした。そこで、第一回目は伝道者としての形成、第二回目は伝道と教会形成の原則についてお話しします。
- 伝道者としての召し
私が、神の前に「献身します」と祈ったのは、大学1年の冬、1979年1月に洗礼を受けて、1か月ほど後の2月の下旬のことです。自分の底知れぬ罪深さとそれを赦すために主イエスの十字架があったことを改めてまざまざと示されて、「この人生を自分のために使ったのでは申し訳ないので、主のために用いてください」と祈ったのです。それから1か月祈ってから、朝岡茂牧師(同盟基督土浦めぐみ教会)にそのことを話しました。すると、牧師は召しのみことばが与えられるまで祈りなさい、とおっしゃいました。
それから約1年と2カ月間、教会生活とディボーションで主のお取り扱いを受けて、翌年1980年5月に、握っていた最後のプライドみたいなものを全部明け渡したとき、主は召しのことばをくださいました。マタイ福音書28章18-20節「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」折々、自分の使命を確認するために、このみことばに立ち返ります。
人にもよるかもしれませんが、こういう召しのことばは自分の原点を何度も確認する上で、大切なことであると思います。
- 「いのちがけで奉仕しなさい」
「献身者は、牧師の右腕だ」というのが朝岡牧師のことばでした。私は教会学校中学科を担当させていただいて一生懸命に奉仕しました。大学生だった私は、主の日は誰よりも早く教会に出かけて、鍵を開けて、ストーブをつけ、もう一度玄関を掃き清めましたました。中学生たちとは、毎週一人一人交換ノートを作ったりなどしました。
中学科の説教のために、後藤光三先生とヘルムート・ティーリケの説教学の本を勉強し、註解書なども手に入れて、教会学校のメッセージを磨き上げようとしました。しかし、その一生懸命さは、時折、あまり熱心でないCSの同僚をさばくことにもなりました。
大学卒業間近、神学校入学の一か月前、牧師宅を訪ねてお話をしたとき、朝岡牧師は、「君は傲慢だ。君の周りには草も生えない!」と怒りを発せられました。私は愕然として「自分のような者が伝道者となったならば、神様にご迷惑をおかけするだけではありませんか」と思いました。
また、朝岡先生は言われました。「神学生になったなら、士官学校に入ったと思って、いのちがけで勉強し、いのちがけで奉仕しなさい」と。また、「君のような奴は、他の牧師には任せられないから、宮村武夫牧師(新約教団青梅キリスト教会牧師、新約学者)に奉仕教会をお願いしておいた」と言われました。
- 「存在の喜び」=「子とされた恵み」を知る
そこで、3月末、東京基督神学校入学許可が出ると、宮村先生が仕える青梅キリスト教会を訪ねました。「どんな奉仕でもします。お便所の掃除から始めます。」と勢い込んで申し上げました。すると、宮村先生は、「水草君。礼拝者として、そこに存在すること。それが最も大切な奉仕です。」と言われました。しかし、そのときの私にはその意味がよくわかりませんでした。
その一か月前、ふるさと神戸の父が食道がんで手術をしても余命半年であるという宣告を受けていました。その4月10日が手術となりました。私には葛藤が生じました。奉仕神学生として、誰よりも忠実に教会に仕えねばならないのに、週末に折々帰省して看護する母を休ませる必要が生じたからです。そのため奉仕教会を欠席するたび、心の中で『それでも献身者なのか。神学生なのか。』という思いが私を責めていました。
しかし、青梅の教会と開拓中の小作の伝道所で教会学校の子供たちとさんびかを歌い、礼拝をささげ、解き明かされるみことばを聴き、折々の交わりで話された宮村先生のことば「なによりそこに存在すること、それが最も大切な奉仕です」が胸に染み込んできました。
十月十日、父が天に召されました。医師が予告したとおり、手術をした四月十日からちょうど半年でした。苦痛にさいなまれる日々のなか、「神様が遠くに行ってしまった」とつぶやくこともあった父でしたが、最期の夜には母に「君と結婚して幸せだった。キリストを信じて天国に行けるから。帰ろう。帰ろう。」ということばを遺して召されて行きました。
葬儀が終わって一ヶ月たったころ、宮村先生は白に黄緑の帯のデザインの本を手渡してくださいました。教会付属の幼児園の記録文集『存在の喜び――もみの木の十年――』でした。宮村先生は新約学者らしく、「存在の喜びの『の』は、目的格的属格の『の』です。つまり、存在が喜ぶ喜びではなくて、存在を喜ぶ喜びです。神様があなたの存在を喜んでくださっている、その喜びです。」と説明をなさいました。神学校の寮に帰って、さっそく読みました。この半年余り、礼拝で、ふとした語らいの中で宮村先生から聞かされたことばで、心に残りながら、十分に悟りえなかったことの意味が解き明かされて行きました。聖書が与える目にはこんな喜ばしい世界が映り、凛とした人生が見えることを知りました。そして、次のくだりに至ったとき、胸が熱くなって、しばらく、先に進むことができなくなってしまいました。
「園児にとって、何が無くとも、これだけは是非必要なこと、それは自らの存在が喜ばれている確認です。両親が自分の存在を喜んでいてくれる。園でも、教師や友人たちが自分の存在を喜び受け入れてくれている。自分の存在が少くとも或る人々に心から喜ばれているとの自覚は、必要不可欠なものだ。これこそ、この十年深まりつづけてきた確信です。何が出来るか、何の役に立つかと機能の面からのみ判断されるのでなく、ただそこに存在していること自体が喜ばれ重んぜられる。この経験なくして幼児は、いや人間は真に人間として生きることは出来ないのではないでしょうか。」(第一版四十八、四十九頁)
何ができるかできないかにかかわらず、主はこの私の存在を喜んでいてくださるのだということを、私はこのとき悟りました。私は確かに恵みのゆえに罪赦され救われたにもかかわらず、いつのまにか熱心な奉仕のわざに自己満足し、行ないえないときには神の怒りにおびえる奴隷状態に陥っていたのです。ところが主は「わたしは、おまえがどんな奉仕ができるとか、できないとかいう以前に、おまえがただそこにわが子として存在してくれることが喜びなのだ。」とおっしゃったのです。私の人生は変えられました。生きることに喜びと自由があふれてきました。
神学校最終学年になって母教会の朝岡茂先生のもとに帰ったとき、先生はガンの床にあって、「君は伸びた。」とおっしゃってくださいました。朝岡先生は私が真の意味で伸びるためには、朝岡先生のもとではなく、宮村先生にゆだねることが必要だと見抜いていらしたのでしょう。私は朝岡茂先生のもとで主の兵士としてのいのちがけの厳しさを学び、宮村武夫先生のもとで神の子とされた喜びを知ったのです。
あの日からすでに40年がたちました。もし「存在の喜び」との出会いがなかったならば、私はきっと家庭生活においても、牧会者としての生活においても、田舎での開拓伝道においても、とうに破綻し燃え尽きてしまっていただろうと思います。
しかし、この「存在の喜び」は救済論的にはどう位置づけられるのだろうかとわからず、10年ほど考えました。そして得た結論は、私が経験した「存在の喜び」とは神がキリスト者に賜る「子とされた恵み」なのだということです。プロテスタントの典型的な救済の順序は、<義認―聖化―栄化>ですが、ここには最も大切なことが欠けています。それは「子とされたこと」です。多くの神学書において「子とされた恵み」は、義認論の一部として軽く扱われ、不十分な扱いしかされて来ませんでした。しかし、義認と子することは違うのです。義認において神は、被告に対する正義の審判者ですが、子とすることにおいて神は被告を愛して養子に迎えてくれた父親です。神は、お前はキリストを信じたから、キリストの義を根拠として刑罰を免じてやったから、まあ仕方なく奴隷としてお前を家に置いてやろうということではなく、私の存在を子として喜んでいてくださることがわかったのです。
パウロはローマ書1章から5章でキリストの代償的贖罪を根拠とし信仰を手段とする義認にについて教えました。6章から単数の擬人化された罪(つまり悪魔)から解放された者、義の奴隷としての生き方を教えますが、7章で彼はそこで律法に捕らわれて自分は少しもきよめられていない者だということに気付いて絶望し再び恐怖に陥りました。律法主義に逆行した奴隷的キリスト者の状態です。しかし、8章に入ってキリストの贖罪のゆえに義と認められた原点に立ち返り、自分は、子とする御霊を受けためぐみを受けていたのだと気づきます。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。」ローマ8章15節
奴隷的信仰では、早晩くたびれて破綻してしまうでしょう。「神は、ただ私の罪をキリストの義を根拠として赦して、義の奴隷として私を召してくださっただけでなく、私をご自分の子として、その存在を喜んでくださっているのだ」という事実に目覚めることが大事です。子とされた自由と喜びがあってこそ、キリストの共同相続人としての働くことができます。
- 賜物と使命感
ところで、神様の前に献身を表明したときから、神様が私をどのように用いようと、また用いまいとご自由であると考えていました。私がお世話になった朝岡茂牧師は、私の賜物からして牧師をするとしても神学教師となるようにと考えておられたようです。もしかするとそうかもしれないなあと思いつつ、私自身はそのことは主にお任せして、1982年、東京基督神学校に入学し学びが始まりました。
1年生の秋に、友人の山口陽一君たち数名で、毎週月曜日の夕食後、「日本福音土着化祈祷会葦原」を始めました。その趣意書は以下の通りです。少し恥ずかしいのですが、紹介します。
日本福音土着化祈祷会「葦原」趣意書
1983年3月7日
天地創造の神は、みこころのままに私共のうちに働かれる神であると知ることは、志を持って何かを為さんとする者にとって、この上ない励ましであります。今私共実に小さな集まりではありますが、日本に於ける福音宣教、とりわけ「農村」と称される地域への宣教のために祈りと学びを行なって行きたいと志し、日本福音土着化祈祷会「葦原」を結成いたしました。
以下、この会の趣意を述べさせていただき、御賛同、御同労を仰ぎたく存じます。
趣意
この会が、特に「農村」宣教に主眼を置きながら、日本福音土着化祈祷会と称するのは、「農村」への取り組みが日本という土壌に福音が根を下ろし結実することを望む上で、欠くことのできない視点であると考えるからです。
「農村」とは、古来、葦原開墾以来の日本の集約農業の中で培われ、さらに幕藩体制下に再編強化された共同体規制が、現在なお精神的かつ因習的に脈々と息づいているような地域と規定します。(この共同体規制は広く日本人の精神構造の「根」となっているのではないでしょうか)かかる意味において「農村」とは産業構造と精神構造のあいまった文化の問題であると言えましょう。
明治期以来、教会はこの「農村」への宣教の再三の試みにも拘わらず浸透しきれないまま、むしろ、そこから離れるということで生き延びてきたのではないでしょうか。特に戦後の高度経済成長期を通して、人口が都市に集中してきたのに伴い、教会の「農村」離れも著しくなって来たと思われます。
しかしながら、「農村」を離れ、信徒数を獲得しやすいところで形成された教会は、伝統的な日本の社会の中にあって、孤立とまでは言わないまでも不自然な隔たりを作り出しているのではないでしょうか。
そればかりか、世の能率主義は教会内部をもむしばみ、会員数が教会の評価の最大基準とされるような風潮なきにしもあらずです。こうした状況下で「すべての造られたもの」を目指すべき教会の福音宣教への目は「農村」への幻を見失ってきているのではないかと案ずるものです。あるいは世界宣教の視野の必要が叫ばれ、海外への宣教師が多くの祈りに支えられて、益々その働きを広げようとしているなかで、一方「農村」への宣教は忘れられて行くばかりではないか・・・そんな懸念をも覚えずにはおられません。
私共の試みは、「都市」中心の宣教論のみ横行する現状に対する小さなアンチテーゼでありますが、これは聖なる公同教会の形成の一端をになう日本の教会の宣教のために決して無意味なことではないと信じます。
私共福音宣教の業に召された者として、日本に於けるより望ましい姿での福音の土着を考え、「農村」宣教への祈祷の同労者となりたく願うものです。
日本福音土着化祈祷会「葦原」一同
これが、私の「農村伝道の志」の始まりでした。当時は米国のプラグマティズムの教会版である教会成長論花盛りで、若い神学生たちには、それに対する反発もありました。しかし、今日まで年数が経つうちに、わかってきたのは、都市部に召された人は都市で、農村部に召された人は農村で、それぞれ召しに忠実であることが大事なんだということです。また、召しに相応しいところで伝道することが許されたら、伝道者としてこんなに幸せなことはないということです。
神学校最終学年の夏、小畑進先生から呼ばれました。将来、神学校で教えることができるように、学びを続けなさいという指示でした。私は、神学校で教えていただいた先生方を見ていて、牧会を離れて留学をして研究に専念してきた先生方と、牧会をしながら研究をして来られた先生方を見た時、生意気なことですが、後者の先生方の方に「本物」を感じていました。アウグスティヌスもルターもカルヴァンも現場の牧師として神学をした人たちではないか、と思いました。それで、特に観念的な傾向のある自分のような者は、牧会の現場から離れないで、神学を学びたいと考えていますとお答えしたことを記憶しています。
- 大泉聖書教会で9年間・・・砕かれる
とはいえ、日本同盟基督教団では新卒者は、教団理事会に人事はすべてお任せでした。そこで、1985年、神学校を卒業し、練馬で老練な宣教師モーリス・ジェイコブセン先生とともに4年間開拓途上の教会で働き、5年目から5年間は私と家内だけで合計9年間奉仕しました。私が宣教師とともに働き始めた時点で、すでに集会は20名弱でしたから、開拓から自立に向かう時期でした。
当時はバブルの真っ最中で都市部の伝道の困難は、土地と会堂の取得でした。私が遣わされたとき、20名ほどの群れに毎月40万円の民家を改造した会堂の返済の重圧がのしかかっていました。その返済の多くの部分は、宣教師は英語教室からの収入でまかなっている状態でした。学園町は300坪の敷地を単位とするお金持ちの家がならぶところでしたが、若い牧師家族は、三食のうち一食はパンの耳で暮らしました。しかし、みじめだとは感じませんでした。キリストの十字架の福音の伝道者として働けることが誇らしく嬉しかったのです。また、後に思ったことですが、この経済的に厳しい生活の経験があったからこそ、信州の山奥に開拓伝道に出ることもできました。
牧会の二年目から東京都立大学大学院の人文科学研究科で、アウグスティヌスを学びました。都立大大学院の哲学科は当時優秀な研究者がそろっていましたし、しかも都立というだけで学費が安く、かつ、都民ということで半額でしたから、上記のような経済状況でも可能だったのです。私が学んでいた時期、都立大大学院には、ギリシャ哲学とアウグスティヌス、トマス、新約学の専門家が教えていてくださって、他の大学院生が「これじゃあまるで神学部だ」とぼやくほどでした。ありがたい神の摂理だと思います。私の学力にとっては、牧会のかたわら学ぶにはその勉強は重すぎて、十分な学びができませんでしたが、後年、教父の本を読んでいく手がかりを得たことはありがたいことでした。
この練馬時代に、もう一つの貴重な経験をしました。26歳で牧会者となった私は、神学校で学んだ宗教改革者のように使命感に燃え上り、教会はこうすべきだ、ああすべきだと熱心に働き、また、熱心に教えました。けれども、3年目の秋、問題が持ち上がりました。ジェイコブセン宣教師はPh.Dを持っておられて国立市のTCCで教えていたのですが、千葉に移転して大学化するにあたって移動しなければならなくなったのです。ところが、先にお話ししたように会堂返済は宣教師におんぶにだっこで月額40万円返済していましたから、宣教師がいなくなるということで信徒たちはパニックに陥りました。実は月額20万返済して、返済期間を延長してもらう準備をしていましたが、その準備している最中に役員が集会を開いて宣教師が去ることについて教会員たちに話したので、教会は大騒ぎとなり、宣教師と牧師を非難する声が上がりました。
宣教師は12月から2か月ほど米国にファローに帰りました。その間、ストレスで私は12月から目が回るような症状があり、1月早々下血して緊急入院となりました。赤血球値が正常値の三分の一なので、失血死する惧れがあるということで、医者は慌てて出血点を見つけるために、上から下からカメラを入れてさぐりました。しかし、病気自体は恐らく十二指腸潰瘍だったのですが、全国の同労者に祈っていただき神様のあわれみによって、手術もせず一晩でいやされましたが、念のために1週間入院となりました。私は病床にあって考えました。不思議と、病に倒れると、自分の罪について考えるものです。
「私は自分は何をしてきたのだろうか?この三年間、一生懸命にしてきたことはすべて間違いであり、罪でしかなかったのか?」
・・・その意味が分かったのは、その年のアドベントのころ、一冊の本を読んだ時です。ウォッチマン・ニーの本『アブラハム、イサク、ヤコブの神』でした。ヤコブはヤボクの渡しで神と相撲を取って、もものつがいを打たれ、足を引きずるようになりました。もものつがいとは人間のからだの関節のなかで最も強いところです。そこをヤコブは打たれたのでした。神の人は、神に最も強いところ、つまり、自負するところを砕かれて、自信がなくならなければならない。ひとたび神に打たれると、その人は、何をしていても自信がなく、常に「神様大丈夫でしょうか?」と尋ねながら生きるほかなくなるのだと言うことでした。しかし、神に打たれた当座は、いったい自分の身に何が起こったのか理解することができず、後になって、「ああ、あれは神が私を打たれたのだ。」とわかるのだということでした。
神の人は、それが正しいか、間違っているかを問い、正しければいいというものではない。何か自分の善悪の物差しを持っていて、善悪を論じるのは、世の人々がしていることです。神の人は、「これは神のみこころなのかどうか」ということを常に問いながら生きるのです。善悪を論じることは世の人々に任せて、神の人は自分の十字架を負って主イエスに従って行けばよいのです。
神の人は、神に砕かれて、自信を失い、いつも神様に「これはみこころでしょうか?」と問いながら生きる者とならなければ役にたたないということを、この取り扱いを通して教えていただきました。先の存在の喜びと並んで、この出来事は私のその後の伝道者としての歩みにおける、もう一つの大事な経験となりました。
- 南佐久郡伝道へ…人生の選択のための3つの問い
練馬の9年間、年に春と秋には「日本福音土着化研究会」葦原の学び会をして、日本の田舎の福音化を祈ってきました。特に8年目ころには、練馬の教会の会堂返済にめどが立って、十分ではありませんが、牧師給も赴任時の倍になって(16万円家付き)他の方に譲れる状況になってきました。私は三十代半ばが迫っていて、葦原の学びと祈りをしてきたことをそのままにしておくわけには行かないと感じました。そのとき、神学生時代に宮村武夫先生に教わった人生の岐路における3つの問を自分に向けました。
3つの問。
①「わたしにもできること」・・・練馬の伝道は確かに私にもできることでした。でも他の方にもできるでしょうし、私よりもできる方がいらっしゃるでしょう。
②「わたしにしかできないこと」・・農村伝道は、したいという人はほとんどいないように思われました。都会育ちの自分に何ができるかわかりませんが、ずっと農村伝道を祈って来て、少なくとも「したい」「すべきだ」と思っているという点では、わたしにしかできないことでした。
③「今ならできるが、10年たつとできないこと」・・・人間は歴史的存在、つまり年を取っていく者です。開拓伝道に実際に携わった方に聞けば、気力・体力が必要だと言われました。人生の残りかすでなく、自分の人生の気力体力充実した良い時を、この働きにささげたいと願いました。当時、私は三十代半ばで、子どもはひとりでした。十年たてば家族への責任などもさらに重くなって、開拓に出るのは難しくなるでしょう。
→田舎の因習の厳しい地域、教会のない地域に伝道し、教会を設立したい。
練馬9年目の夏、松原湖バイブルキャンプで高校生アウトキャンプで奉仕をしました。そのとき、高校生たちを救いに導き献身者を募ると同時に、自分の今後の進路にも主の導きがあるようにと祈ってキャンプに参加しました。高校キャンプは祝福あるものとなり、高校生たちはみな悔い改めてイエス様を信じ、キャンプリーダーをしていた大学生たちからも献身を表明する人が起こりました。彼らは今も伝道者をしています。
奉仕が終わったとき、キャンプ主事であり「葦原」の仲間であったS牧師に声をかけられました。見晴らしのよい高いところに行き、「お互いの志を語り合うではないか」というのです。そこで、私は自分は神学校卒業後都市部の住宅地で伝道してきたけれども、そろそろ会堂返済の目途も立ったことなので、後任の方に譲って、自分はどこか福音が届いていない、教会の無いところで伝道をしたいと思っている。」と話しました。すると、S牧師はこともなげに、「それならば、この小海町、南佐久郡は一つも教会がないから、ここに来て開拓伝道すればいい。」と答えました。・・・キャンプの前に主に祈ったことに対する答えだと思いました。
翌早朝4時頃目が覚めて、開かれたみことばは、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)でした。ここ南佐久郡で開拓伝道することがみこころだとわかりましたが、不安のある自分でしたが、神様は、このみことばをもって確信を与えてくださいました。
- 妻に決断を告げ、教団から許可を得る
家に帰ると、妻にこの決断を話しました。妻は、「はい。従っていきます。」と言ってくれました。そのように妻が理解して従ってくれたことには背景があります。
一つは、神学校卒業後9年間、ずっと私は「葦原」の学び会を毎年2回続けてきたことです。大泉の教会を会場にして、寝泊りしながらしたこともありましたから、いずれ、その時が来ると彼女は承知していました。
もう一つは、その8年前家内に結婚を申し込むときに、こう言ったのです。「もし、ぼくが大きな事柄について間違った決断をしたと思っても、君はぼくに従ってくれますか。」家内はそのとき、「はい。したがっていきます。」と言ってくれたので、私たちは結婚したのです。家内は、わたしが南佐久郡に開拓伝道に立つという決断を告げたとき、「あの時『はい』と答えたことを今、神さまに試されているのだ」と思ったのだそうです。
とはいえ、当時、病身の母がいっしょに暮らしており、家内のおなかには二番目の子がいるという状況でしたから、不安がないわけではありません。しかし、主は家内に詩篇23篇から「まことに私のいのちの日のかぎり、いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。私はいつまでも主の家に住まいましょう。」と語りかけて平安をくださいました。
南佐久郡という農村地帯の開拓伝道は、志を同じくする「ふさわしい助け手」がいてくれなければできるものではありませんでした。伝道牧会、特に開拓伝道はそうです。
その後、教団的には、理事会に私の南佐久郡行きの志を告げ、大泉聖書教会に後任者を迎えなければなりません。そこで、当時の理事長吉持章先生のお宅に夫婦で出かけて、南佐久郡開拓伝道の思いについてお話をして、理事会から許可をいただくことができ、いよいよ具体的準備をしていくことになりました。
まとめ
①主の十字架の愛に感動して、主に人生を捧げますという献身と、主が私を伝道者としての召してくださったという確信と使命感。
②存在の喜び。・・・神は、自分をその働きのいかんでなく、神の子としての私の存在を喜んでいてくださるという喜び。
③主に打たれ砕かれて、自信を失うこと。そして、いつも「これはみこころにかなっていますか?」と問いながら、生きていくようになったこと。
④人生の岐路における3つの問い。
⑤「ふさわしい助け手」。