序 旅程
13節から16節にまずパウロの旅のようすが描かれます。整理してみましょう。アソス→、ミテレネ→キヨス→サモス→ミレトという順番です。目ざしているのは、エルサレムです。そして、今日の舞台はミレト。「ミレトの別れ」の場面です。
1. 福音の核心
パウロはミレトに滞在し、北にあるエペソに使いを送って、エペソ教会の長老たちを呼びました(17節)。長老たちというのは、今でいう牧師たちです。当時はまだキリスト教会は礼拝専用の大きな建物をもっておらず、信者のなかで比較的大きな家に住む人が自分の家を定期的に礼拝の集会のために提供するというかたちで、教会生活がなされていました。ですから、一つ一つの群れは100名といった数ではなく、20人程度までの群れがいくつも一つの町の中にあるということだったそうです。そして、そのエペソならエペソにあるいくつもの群れをあわせて、エペソの教会というふうに呼んだのです。呼んだということは、それらが一つの群れであると意識されていたということを意味しています。そして、小さな群れそれぞれを担当している長老たちが、共同してエペソの全体教会を牧していたというわけです。
さて、パウロは長老たちに向かって訣別説教を始めます。パウロはまず、自らのアジア宣教について振り返ります。(2:18−21節)
数々の試練がありました。特に、石打ちの刑にあうほどひどい迫害にあったこともあります。けれども、いかなる困難のなかでも、ひるむことなくパウロは「主に仕えました」と19節で言っています。パウロはまず、第一に自分のみことばの奉仕は人にたいするものではなく、主イエスに対するものなのだということを自覚していました。福音宣教の務めは第一義的人間を喜ばせるためでなく、主の召しに対する応答です。
主の命令に対する応答として、パウロはエペソの教会の兄弟姉妹たちに、「益になることは少しもためらわず」知らせたというのです。そして、いつも申しますようにパウロが、ユダヤ人であるとギリシャ人であるとを問わず、共通して宣べ伝えたのは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした。このメッセージは文化を超え、時代を超えて、世代を超え、変わることなく宣べ伝えられるべきメッセージです。
パウロは宣教のために、ユダヤ人にはユダヤ人の習慣になじむように努力し、ギリシャ人にはギリシャ人の習慣になじむように努力して、彼らに福音宣教をしました。着物、食べ物、もろもろの習慣のちがいについては、それが罪でないかぎり、伝道者はへりくだって自分をあわせる努力すべきです。しかし、福音の核心部分は変えてはなりません。その中核が、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」です。つまり、我々人間は天地の創造主に背を向けて生きていることが罪であることを教え、その罪を悔いてまことの神に立ち返り、主イエスを信じてその罪をゆるされて神の子どもとしていただきなさいと宣べ伝えることです。
2.伝道者としての覚悟
ついで、パウロは今後の予定を述べて覚悟のほどを表明します。
(20:22)
伝道者としての召しとは、どういうことなのか。それは多くの職業のうちの一つのことを自分が選ぶということではありません。生活の糧を得るための職業ということであれば、パウロは宣教活動をしながらずっと天幕作りということをしていました。教会のない地域に開拓伝道をするということですから、パウロはアンテオケ教会の後方支援を受け、私財を投じ、そして必要に応じて天幕作りをして資金をつくって伝道をしました。そして、彼の後、その教会が自立して牧師を立てて経済的に支えていくようにと指導しました。「20:33 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。 20:34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。」
しかし、そういう生活の資を得る為の職業とは違う次元で、パウロは「主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする」という使命を与えられたのです。そのためには、「いのちをも少しも惜しいとは思いません」とパウロは表明しています。事実、パウロはこの小アジア半島における伝道のなかで、反対派のユダヤ人たちに石打の刑にあって、ほとんどいのちを奪われそうになったこともありました(使徒14:19,20)。伝道者としての召しを受けるとは、そういうことです。
一般の職業であっても、生命の危険を冒す職業があります。警察官、自衛官、海上保安官、消防士がそうです。まして主イエスから、伝道者として召されたばあいも、殉教の覚悟が必要です。F.フランソンは、宣教師志願者たちに三つの問を発しました。「君は、確かにイエス・キリストによって救われたことを確信しているかね?」「君は、滅び行く魂を救いに導いたことがあるかね?」「君は、主イエスのために喜んで命をささげる覚悟があるかね?」
3.長老たちの務め
(1)神のご計画の全体を
ついでパウロは長老たちに、群れの監督者としての務めについて話を進めて行きます。まず、自分が長老たちに教えたことを確認しています。パウロが長老たちに教えたのは、「神のご計画の全体を余すところなく」でした。(20:25-27)
人を救いに導き入れるためには、先に述べた福音の中核部分「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」を教えですが、福音を受け入れた人が、主の弟子としての生涯をまっとうするにあたっては、神のご計画の全体をあますところなく知っておくことが必要です。格別、この長老たちとは今で言えば牧師たちですから、人々を導くために、聖書の全貌、神のご計画の全体を知っておく必要がありました。
恩師の宮村武夫先生は、神学校のクラスでも、学会でも、しばしば「聖句主義ではだめだ。聖書主義でなければならない。」ということを強調なさいました。聖書のある一句だけを取り上げて、それで聖書がわかったというのではなく、神のご計画全体のなかで、聖書のひとつひとつのことばを正しく理解することが大切なことなのです。それが神学ということです。聖書の啓示を全体のなかで把握するということです。木を見て森を見ずということになってはいけないからです。組織神学という学問では、啓示、神、人間(堕落前、堕落後)、キリスト、聖霊のわざとしての義認、子とすること、聖化、教会、終末といった順序で学んでいきます。
特に長老、牧師という務めを与えられている者にとっては、神学教育がとてもたいせつです。ですから、この小海キリスト教会の役員会でも、毎月の役員会報告を読んでみなさん気づいていらっしゃるでしょうが、伝統的な信仰告白書を順々に学んでいるのです。
(2)長老たちが持つべき心がけ
こうした神のご計画全体を学ぶことは、特に、これからパウロが去って後、群れをそれぞれ導いていく務めをになおうとしている長老たちにとっては必須のことでした。というのは、凶暴な狼すなわち偽牧師(異端)が登場しようとしていたからです。(20:28-31)
異端の教えの特徴は、聖書を用いて神の話をしながら、その一部分を過度に強調し、他の部分をないがしろにするということです。エホバの証人や統一教会などたしかに彼らは聖書を用います。その熱心さは驚くべきものです。しかし、彼らの教えはある部分だけを強調し、自分たちの教えたくないこと都合の悪いことは覆い隠してしまうのです。
ですから、その偽教師の教えを見抜くために必要な備えは、聖書全体、神のご計画全体を、まず自分自身がしっかりとバランスよく学ぶということです。「あなたがた自身と」群れの全体とに気を配りなさいとパウロが勧めているでしょう。人に教える前に、また人に教えると同時に、牧師や長老役員は、自分自身があくまでもみことば全体を学び続け、研鑽し続けることが必要なのです。老パウロはのちに若いテモテ牧師に対する手紙の中で次のように命じています。(1テモテ4:16)
結び
こうして、パウロは次のように神とその恵のことばに、エペソ教会をおゆだねするのです。感動的なことばです。 「20:32今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」(口語訳)
このみことばを味わっているうち、愛する教会を地上に残して旅立って行かねばならなかった恩師朝岡茂牧師のことを思い出さないではいられませんでした。朝岡先生は、神学生の時代、学生牧師として土浦の宣教師が開拓した群れに遣わされ、卒業後も、その群れに迎えられて、牧会者としての生涯をその教会でまっとうされました。
朝岡先生は、たしか46歳で最初に癌を発見され、手術をしました。そのころからしばしば説教の中で、「私が土浦めぐみ教会で行なってきた奉仕が本物であったかどうかは、朝岡なきあとのみなさんの歩みによって確かめられることです」とおっしゃっていました。
そうして2年後、12月31日、48歳で天に召されて行かれました。会堂建築のビジョンがありました。これからというとき、心血を注いで育て上げた教会を後にして、天に召されてゆかねばならない牧師として、最後のときにどのようにして群れに別れを告げることができるでしょうか。神がこの群れを導いてくださる。神が、そのみことばによって、この群れをサタンの悪しき働きから守ってくださる。そのように信じて、教会の兄弟姉妹たち一人一人を主にゆだねて行かれたのです。「神とそのめぐみのことばにゆだねます」
信仰には楽な道はありません。みなさん一人一人、日々こつこつとみことばを味わって成長して行きましょう。今年も残すところわずかとなっています。2010年の初めに立てた聖書通読の計画は着実に実行してこられたでしょうか。まだ1ヶ月あります。みことばにしっかりと根ざして、たしかに成長しつつクリスマスを迎え、新年を迎えたいものです。