苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

今後数年間の日本列島

 奈良からの帰り道、東京駅で藤井聡『列島強靭化論』という本を手に入れた。著者は京都大学教授なのだが、丸刈りにいかつい風貌はどうみても土建屋のおやじという感じで、いかにも土木工学の専門家らしい。この人は先に『公共事業が日本を救う』という本で、「コンクリートから人へ」という鳩山スローガンを徹底非難しており、ゼネコンの喜ぶ本である。「世界一のスーパー堤防」もやすやすと破壊されるのを見た私たちとしては、コンクリートが人を救うとは簡単に思えないが、それはさておいて、その第一章は紹介に値すると思ったので、ここにメモしたい。
 第一章「『巨大地震』は、すぐまた起る」では、目をそらしたくなる今後の自然災害の見通しからあえて目をそらさないで、きちんと記している。ただし原発問題はほとんどノーチェックである。このあたりが大学の先生の専門家としてのつつましさであり、限界でもある。筆者は原発の専門家でもなく地震の専門家でもないから、好き勝手に書くことができるというアドバンテージを持っているが、他方でつつましさに欠くことが問題点である。読者は、筆者の書くことの裏をご自分でとって確認されるようにお奨めしたい。
 さて、世界の大地震の2割が日本で起っており、近々、東海・南海・東南海地震が来ることになっている。311地震前、30年以内に地震がやってくるという予測値が東海87%、東南海60%、南海50%であるが、今回の311地震によって列島にひずみが生じた為に、その発生確率ははねあがった。その被害額は建物・インフラの倒壊だけでも40兆円から60兆円に上る。(筆者:東海地震冷温停止中の浜岡原発が破綻して風下の首都圏が100年間居住不能となったら、到底その程度ではすむまい。) さらに、首都直下地震が311前の予測で30年以内に起る確率は70%で、その経済損失は88兆円から112兆円に上る。

 ところが、「今後30年以内に」という予測は、今回の地震で「今後数年ないし10年以内に」と変更せざるをえなくなってしまったと思われる。藤井氏と筆者が以前調べていたことを総合して過去の列島の巨大地震の連動の軌跡を下記にまとめてみた。

a.866年富士貞観噴火→869年貞観地震(東北)→887年仁和地震(南海・東南海・東海)→878年相模武蔵地震(関東)
b.1605年慶長地震(南海・東南海・東海)→1611年慶長三陸地震→1615年慶長江戸地震
c.1703年元禄地震→1707宝永地震(南海・東南海・東海)→1707年富士宝永噴火
d.1853年嘉永地震(関東)→1854年安政地震(南海・東南海・東海)→1855年安政江戸地震
e.1894年明治東京地震→1896年明治三陸地震→1897年明治宮城沖地震
f.1923年関東大震災→1933年昭和三陸地震→1936年昭和宮城沖地震→1944年東南海地震→1946年南海地震→1948年福井大地震
g.2011年3月11日東日本大震災→?

 こうしてみると、確かに今回のような超巨大な地震が起きた以上は、ここ数年以内に他にも大きな地震が連動する可能性はかなり高いようだ。現に、直下型地震はすでに長野県北部に起きたし、静岡県富士宮にも起った。プレート境界型としては、東海・東南海・南海(静岡〜四国)の三連動地震が近々起る可能性が非常に高くなったと専門家たちは警告しており、3月11日以後、四国では井戸がにごるという異変が観察されている。日本海側ではマグロが例年の10倍の水揚げである。また、関東大震災は小田原地震という相模湾のプレート境界型地震で、その周期は過去ずっと73年ほどの周期で来ているのだが、例外的に前回関東大震災(1923年)からは90年近くになろうとしているから、明日きてもおかしくない。

 「関東大震災が近いから大阪に首都機能移転を」と大阪府知事が提唱しているが、大阪も近く東南海・南海地震津波に被災する可能性が高い。「東南海・南海地震が、東日本大震災と同じマグニチュード(M)9・0規模で起きた場合、大阪湾岸から約15キロ離れたJR大阪駅などのほか、大阪府北東部の北摂、河内地域など約40キロ離れた地点まで浸水被害を受ける可能性があることが、専門家の試算で分かった。津波の規模は、これまでの南海地震の想定より3メートル高くなるとみられて」いる(産経・関西6月16日)。そうすると大阪府の中心部は広範囲水没する。大阪は地下街が発達した街である。防潮堤では津波は防ぎきれない津波がやって来たら、頼りになるのはコンクリートのビルだということを私たちは学んだ。市民は大きな地震が来たらすぐにビルに避難する訓練をしておくべきだろう。

 さらに、藤井氏がもうひとつ指摘するのは、富士山の噴火であったので、上記のaとcに入れておいた。地震と富士山の噴火の連動は貞観噴火と宝永噴火がある。貞観噴火は869年岩手沖、宮城沖、福島沖が連動した「千年に一度の巨大地震」が起る3年前のことだった。宝永噴火は、1707年の東海・東南海・南海が連動した宝永大地震と同じ年、直後に起っている。
 「宝永4年11月23日(太陽暦では、1707年12月16日)午前10時ころ、富士山は南東斜面より大噴火した。噴火は、12月9日未明まで16日間断続的に続き、新たに開いた宝永火口から噴出した火山礫れきや火山灰などの噴出物は、偏西風にのって静岡県北東部から神奈川県北西部、東京都、さらに100km以上離れた房総半島にまで降り注いだ。・・・推定1.7km3(マグマ量に換算して0.7km3)の噴出物は、家屋の倒壊や農耕地の耕作不能化をはじめ、流出した火山灰による河川氾濫などの二次災害を引き起こし、長期間、広範囲にわたり影響を及ぼすことになる。」(内閣府の広報「ぼうさい」)
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/kouhou037_18-19.pdf
 火山の噴火による被害の規模は、富士からの風向きと距離によって決まった。遠く江戸・千葉は火山灰であったが、近いところでは1〜3メートルもの「砂降り」となり、たとえ数センチの砂降りでも収穫不能となったため、噴火のあとには大規模な飢饉がやってきた。富士宝永噴火は新田次郎の小説『怒る富士』に取り上げられている。
 富士山という天然火山に加えて、原発という放射能を噴き出す人工火山を私たちはこの地震列島に54基も造ってしまった。太平洋側には、冷温停止中とはいえ浜岡原発には莫大な使用済み燃料放射性廃棄物が保管されており、日本海側では島根、京都、福井、石川、新潟(柏崎)に原発が立ち並ぶ。先週南九州で震度4という地震があり、新燃岳は噴火して付近住民は避難している。九州にも佐賀、鹿児島に原発がある。これらの原発すなわち放射能噴出人工火山は、今回実証されたとおり地震で破壊され、広範囲を居住不能地域としてしまう。元原子力安全委員である武田邦彦氏が言われるように、たいていの原発は設計震度が5で、震度6が来ると壊れるように造られている。ところが、阪神大震災以来活動期に入ったので、各地で震度7が頻発している。
 ここ数年のうちに、これらの災害が非常に高い確率で来ることがわかっている以上、政府と電力会社は緊急に備えることが必要である。東海・東南海・南海地震や関東直下型地震は、たしかにとどめようがない。もしかすると富士山も噴火するかもしれない。しかし、原発に関してだけはあらかじめ止めることができる。これら今後数年間の現実から目をそらして、目先1、2年間の損得に囚われて政府・経済産業省原発再稼動のために血眼になり、電力6社の株主総会でも「脱原発」は否決となった。
 若狭湾敦賀湾の原発銀座が壊れれば風向きによって京都、名古屋は居住不能となるし、まもなくやってくる東海地震冷温停止している浜岡原発を地盤ごと破壊して、風が運ぶ放射能雲によって首都圏は汚染される。柏崎原発破綻でも同じこと。その計り知れない損失と目先の損失を秤にかければどうすべきかは明らかである。どんなに巨大な津波地震があっても復興することができるが、大地がひとたび莫大な放射能に汚染されてしまえば復興できないことは、チェルノブイリとその周辺をみればわかることである。
 地震津波も止められないが、原発はすべて冷温停止して廃炉に向かわせることである。当面の代替エネルギーは資源豊富で環境負荷の少ない高性能火力(石炭・天然ガス)とし、さらに再生可能エネルギーに向かって進むべきである。
 あまりに巨大すぎる災害が迫っていると知ると、多くの人は思考停止に陥ってしまう。目と耳を閉ざして崖に向かって突進するレミングのように。だが、できることはあるのだ。大事なことはできないことに無駄なエネルギーを注いでばかりいて、今できること、すべきことをおろそかにしないことである。責任ある議員さんたちには、政争をやめて、ラインホルト・ニーバーの祈りを知ってほしい。



         落ち着きserenityの祈り

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。



追記>それにしても思うことは、個人としてはやっぱりいつこの世を去るときが来てもよいように、ちゃんとイエス様を信じて備えをしておくことが大事である。また主の前に出たときに、イエス様の前で恥じ入る必要がないような生き方をしておくことも大切である。それはとりもなおさず、神を愛し隣人を愛する生き方をしているということにほかならない。