苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

判事、大学教授たちの責任

 以前にも一度取り上げた記事だが、再掲する。

〜〜以下引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
TBSニュース(2011年4月27日23:15)
 巨大地震が起こったら原発は大丈夫か?安全性については、これまで何度も法廷で争われてきました。全国8か所の原発で、住民が運転差し止めの訴えを出して争いましたが、訴えは相次いで退けられています。そんな中、たった一度だけ住民の訴えが認められ、原発の運転をしてはならないという判決が出たことがあります。当時の裁判長が重い口を開きました。

 「原発事故は取り返しがつかない。原発事故を起こさないための司法の責任」

 元金沢地裁裁判長・井戸謙一氏。32年間、裁判官を務めてきた彼は、かつて民事裁判の歴史で極めて異例とされる判決を出しました。それが・・・

 「原発を運転してはならない」

 石川県にある志賀原発の2号機について、「電力会社の想定を超えた地震によって原発事故が起こり、住民が被ばくする可能性がある」として運転差し止めを命じたのです。原発の差し止めを求める住民訴訟はこれまで各地で起きていますが、訴えが認められた例はありません。

 「これが金沢で言い渡した判決。裁判官人生の中で一番記憶に残る事件」(原発の差し止め判決を出した 井戸謙一元裁判長)
〜〜〜〜〜〜引用以上〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 こうした判決はなかなか出されえない。上記裁判と平行して、2004年4月浜岡原発についても同様の訴訟がなされ、静岡地裁はその審理の過程では当該裁判官は原告側に対して相当の理解を示しているふうに振舞っていたので、ずいぶん原告側は期待していた。2006年3月に金沢地裁で上記判決がだされたが、静岡地裁は、結局、2007年10月に原告の請求を棄却している。プレートの境目に立地する世界一危険な原発として有名で、世界中の専門家から警告を受けている浜岡原発についてさえ、裁判官は「安全です」という国側に旗を揚げてしまったのである。
 「司法の独立」という建前は、情けないことであるが、実際にはなかなか守られていない。行政の方針に背く判決を下した裁判官は、その後の出世をあきらめねばならないのが、日本の司法の世界の常識なのだそうである。司法の独立とはいっても、裁判官も官僚にすぎないのである。たまに良心的で勇気のある裁判官が行政の方針に反する判決をくだすのは、官僚裁判官としての出世も有利な天下りもあきらめて弁護士への転進を覚悟しての場合であるように見受ける。
 原子力にかかわる学問の世界でも似たような状況である。国策としての原発推進に反対し続けた「熊取六人衆」と呼ばれる京都大学原子炉実験所の研究者たちが生涯、学界では冷遇され続けたように。逆に、国策である原発に乗っかった学者には潤沢な研究費と教授の地位が提供され、さらに原発メーカーなどへの天下り先が用意されてきた。
 腐った甘い汁を吸いたい人々には吸わせておけばよい。自分が腹を壊すだけだと言ってしまえれば気楽である。しかし、問題は、判事たちが原発について下した判断や、教授たちが原発専門家として公にした知見が、多数の国民の生命を危機に陥れ、故郷と職業を奪い去り、国土と海洋に荒廃をもたらし、世界にまで放射能汚染をもたらす可能性があるのだという責任感を彼らが持っているのかということである。聖なる審判者の前で、彼らが受けなければならない裁きがどれほど重いのかを思えば、身震いする。そういう身震いを知らぬ人々には裁判官や大学教授になってもらっては困るのである。
 クリスチャンとしては、三権の長のひとつであり、最後の社会正義のとりでであるべき裁判官のために、また、司法制度の改革のために祈るべきであろう。イスラエルの歴史を見ると、裁判がまともに行われなくなったとき、その国家の命脈は尽きた。
「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」2テモテ2:1,2